今回は奈良時代のあらまし、日本の歴史を紹介します。
710年(和銅三年)、唐(中国)の長安の都に習って平城京が作られれました。
「咲く花の匂うがごとく」と歌われたこの都は、天皇中心の国家の勢いを、よく示すものであったといえます。
このごろ「古事記」や「日本書紀」のような歴史の本が作られましたが、これも国家統一の1つの記念物といえます。
2つの本には、天皇を中心に国家の統一がどのように進められたか、アマテラス大神の子孫の神武天皇以来ずっと天皇がこの国を支配してきたこと天皇と国民とは、どう繋がっているか、などと言うことが載っています。
都での暮らしが華やかで美しいものであったのに比べて、地方の農民の暮らしは、ずいぶん遅れていました。
山上憶良という歌人は、貧しい生活に苦しみ、重い税に悩んでいる農民の姿を「貧窮問答歌」に詠っています。
この歌は当時の公地公民の建前の中での農民の生活や気持ちをよく描いていると言えます。
東国の農民は、防人として九州の守りにつくことが多かったりですが、これも農民にとって、苦しい勤めの1つでした。
人口が増えるのに耕地が少なかったので政府は墾田の私有を認めるようにしていきました。
これは新しく開墾した土地の私有を認める決まりです。この決まりのために、律令で定められた公地公民の決まりや、班田収授の決まりが崩れてしまいました。
奈良の東大寺やその本尊の大仏は、奈良時代の政治の姿をよく表ししています。
奈良の大仏は、仏教を厚く信仰した聖武天皇の言いつけで、つくられたものです。
聖武天皇は、平和でゆたかな国をつくるためには仏の力に頼るほかはないと考えました。
そして、都には東大寺を、地方には国ごとに国分寺と国分尼寺をつくって仏教を全国に広がるように、奈良時代は政治・学問・芸術などがすべて仏教と結びついていた時代でもありました。
大和時代に続いてて奈良時代にも中国との交わりが盛んに行われました。
若い貴族や僧たちが、遣唐使として、あるいは留学生や留学僧として唐の国へ渡っていきました。
唐への航海は非常に危険で、多くの船が難破しました。
その危険にも負けず、唐の優れた文化を取り入れるために貴族たちは、進んでで唐へ渡りました。
唐との深い交わりによって、奈良時代には大陸風の文化が、どんどん流れこんできました。
大陸風の文化を最もよく示しているものに、正倉院におさめられている様々な品があります。
これらの品は1200年もの長いあいだ、奈良時代のままの姿で伝えられています。
正倉院の品々から、当時の天皇や貴族たちの持ち物や生活などがうかがわれます。
同時に、中国や、遠くアラビア・ギリシア・ローマなど、当時の優れた国々の文化を忍ぶことができまず。
大陸文化の影響の1つとして、漢詩の流行があります。
当時の貴族たちの詩を集めて「懐風藻」がつくられました。
平城京を中心にした時代は、およそ七代70余年続きました。
奈良時代も終わり頃に力を入れ過ぎたために、寺や僧の勢いが強くなり、政治も次第に乱されてきました。