今回は平城京について、日本の歴史を紹介します。

大化の改新以来、日本は非常な勢いで発展しました。
そのため、奈良盆地の南部にある藤原京では狭くなってきました。

710年(和銅三年)、元明天皇は奈良盆地の北の端の奈良の地に、平城京という立派な都をつくりました。

これは、そのころ栄えていた唐(中国)の長安の都を手本にしたものです。
奈良のすぐ北には木津川が流れていて淀川に注ぎ、西は難波の港をへて西国と、東は琵琶湖をへて東国と交通し、都へ物を運ぶには、非常に便利でした。

これまで、ほとんど天皇が代わる度に、都が移されれていましたが、奈良の都は七代70年あまり続きました。

奈良盆地の中央には、古くから大きな道が南北に通じています。
この道を都の中央の道として、朱雀大路と名づけ、幅を二一丈(約36メートル)と決めました。

朱雀大路の東側な左京、西側を右京と呼び、両京とも東西に通じる、幅八丈(約二四メートル)の大路で九条にわけられ、各条は南北に通じる、幅八丈の大路で四坊ずつにわけられました。

このように、都は碁盤の目のように整然とつくられ、全体の大きさは東西約4.2キロ、南北約4.7キロもありました。

都を移してから、左京の東のほうに大きな寺が次々と建てられ、ここに二条から五条にかけ四条と三坊の広さの地をつけたして、外京としました。

今の奈良市の中心部はこの外京の部分にあたります。

都の入口の門は羅城門と呼ばれ、朱雀大路の南の端にありました。
大内裏の正面には、天皇の宮殿である内裏があり、その東南方に朝堂院という一群の建物がありました。

これが国の政治をとる役所で、その中で一番重要な建物を大極殿といいます。

平城京の中には、元興寺・大安寺・薬締寺・興福寺法華寺・東大寺・唐招提寺・西大寺など、大きな寺が次々と建てられました。

なかでも奈良時代の半ば頃に建てられた東大寺は、最も大きな寺でした。
薬師寺の東塔や唐招提寺の金堂・講堂などは、今でも1200年前の姿を留めています。

宮殿や寺、貴族の屋敷などは、青みを帯びた瓦でふかれ、白壁、朱ぬりの柱などが、美しい光景をみせていました。

青丹よし奈良の都は咲く花のにおうがごとくいま盛りなり(奈良のみやこは満開のサクラの花のように、いま美しく栄えている。)

この歌は小野老という人がつくった歌で、奈良の都の華やかで盛んな有様をよくあらわしていますね。

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