遣唐使と奈良の文化 遣唐使 鑑真について、日本の歴史を紹介します。
中国では昔から、何度か大きな統一帝国ができ、高い文化をつくりました。
中でも、もっとも栄えたのが漢と唐です。
618年隋に代わって、李淵(高祖)が唐の国を建てました。
その後目覚しい発展を遂げ、八世紀までに東は朝鮮、北はシベリアのバイカル湖の南方、南は北べトナム、西は遠く中央アジア、バミール高原まで勢力を伸ばしました。
特に、玄宗皇帝の時代(712年~756年)には、唐の国力は最も盛んになりました。
都の長安の賑わいはすばらしく・当時世界一の華やかな大都会でした。
唐には、インド・アラビア・ぺルシア・チべット・南洋諸島・東口ーマなど多くの国々の人がやってきて、それぞれの文化をもたらしました。
各国の文化と中国の古くからの文化とが溶け合って、優れた文化をつくりあげました。
このように唐は日本にとって、憧れの的でした。
623年に唐から帰って来た医師恵日は「大唐国は法式(法律や政治の仕組み)が備わった素晴らしい国です。
常に交わりを結ばねばなりません」と報告しました。
唐の文化を学び、それを取り入れる目的で630年、第一回の遣唐使犬上三田耜らの一行が唐へおくられました。
それ以来、894年(寛平6年)遣唐使が廃止されるまで、15回の遣唐使が任ぜられ、うち12回は、実際に使いが唐の国へ渡っています。
遣唐船は、初めのうち朝鮮の西海岸に沿って北上し、遼東半島から西へ山東半島に渡る航路(北路)をとっていました。
ところが、新羅と仲が悪くなってからは、九州から東支那海を一気に横ぎって、揚子江の河口付近を目指すようになりました。
北路は陸地沿いなのて、わりあい安全だったのですが、南路は強い風を利用して大海を渡っていくので、早い代わりに難破することが非常に多くなりました。
普通1回に4隻の船が行き、1隻に約120人ほど乗りましたが、大抵1、2隻は難破する有様でした。
唐への船には、唐の朝廷へ遣わされた正副使のほかに、多くの留学生や留学僧、また、医学・絵・彫刻・鍛冶・鋳物・陰陽道・音楽などの技術を学ぼうとする人が乗り込みました。
遣唐使や留学生らはみな礼儀正しく、よく勉強したので唐での評判はたいへんよかったようです。
唐へ行った人の中には、唐の国で重んじられた人がありました。
玄防もそのひとりで、玄宗皇帝から紫衣(僧の最高の位の衣)をもらいました。
717年(養老元年)、玄防と一緒に唐へ行った吉備真備と阿倍仲麻呂は学問に秀れ、唐で有名になりました。
真備は735年(天平7年)に帰国したとき、多くの書物・日時計・楽器・弓矢などを天皇に奉っています。
真備は兵学に秀れ、後に九州の恰土城を築いています。
彼は一時、藤原仲麻呂のために退けられましたが、のち出世して右大臣にままで昇りました。
阿倍仲麻呂は、735年(天平7年)、唐使藤原清河とともに帰国しようとして揚州の港で、日本の国を思ってつくった、有名な歌があります。
天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山にいでし月かも
(大空を見あげると、月がのぼってくる。あの月は、ふるさとの春日にある二垂の山から出た月だなあ。これは百人一首に含まれていますよね)
仲麻呂の乗った船は、遠く安南(南べトナム)にまで流されました。
仲麻呂は清河とともに長安に帰り、唐の朝廷に仕えて高い位をうけました。
しかし、ついに日本へ帰ることは出来ませんでした。
鑑真は唐の僧で、日本に唐の文化を伝え、日本で仏教を広めた人です。
僧になるためには、戒というのを正式にうけなければなりません。
戒を授ける人は、立派な資格のある僧でなければなりません。
日本にはそのような僧がいなかったのです。
732年(天平4年)、唐へ行った栄叡・普照のふたりの僧は、戒を授ける資格のある僧を探し求めました。
そして鑑真に会い、日本に来てくれるように頼みました。
鑑真はその頼みを快く引き受け、日本に渡る準備をしました。
ところが、2回も船が難破したり、鑑真を日本へ行かせまいとする弟子たちに妨げられたりして、5回も失敗しました。
5回目には海南島まで流され、鑑真は帰りに目を病み、ついに盲になってしまいました。
たびたびの失敗にも気を落とさず、鑑真は6回目の渡航を企てました。
752年(天平勝宝四年)、藤原清河が鑑真な日本へ連れて帰ろうとしたとき玄宗皇帝が、これを許しませんでした。
そこで、大伴古麻呂が、こっそり鑑真とその弟子たちを自分の船に乗せて唐を出発しました。
一行は風波にもまれながら、754年(天平勝宝六年)1月やっと日本に着きました。
日本渡航の計画をたててから、実に14年も経っていたのです。
鑑真が、数々の失敗に挫けなかったのは、日本に正しい仏教を伝えようという強い信念があったからです。
鑑真は、東大寺に戒壇と呼ぶ壇をつくり、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ多くの人に、戒を授けました。
聖武太上天皇はたいへん鑑真を信頼し、新田部親王の広い住宅を鑑真に寄付しました。
鑑真はそこに僧たちが学ぶための寺を建てました。
それが唐招提寺です。唐招提寺は奈良の右京にあり、多くの僧たちがここに集まってきました。
金堂・講堂は、今でも当時の姿を留めています。
講堂の後ろの丘の上には、開山堂という堂があって、鑑真の像が祀ってあります。