今回は奈良時代の僧の勢いについて、日本の歴史を紹介します。

奈良時には、仏教は国を豊かにし、国を守るものと信じられていました。

また、仏教は人々を苦しみや、悩みから救い、死んでから後は、極楽へ導いてくれる力のある教えと信じられていました。

このように仏教が尊ばれ、重んじられるにつれて、僧の位はたいへん高くなり、学問のできる人が多くでました。

また僧のなかには山々を巡り、荒い修行をして、まじないをする力をつけ、病気を治すことができると信じられた僧もありました。

当時は、身分によって出世が限られていましたが、僧は身分がいやしくても能力さえあれば出世できました。

そのため、高い位につく僧が多くなりました。
そして、国の政治にも僧が口出しするようになりました。

僧の玄防は唐(中国)で18年も勉強してかえり、聖武天皇の母の病気を治してから、天皇の信用を得るようになり、高い位につきました。

やがて、玄防は有カな政治家橘諸兄をあやつり、政治を1人で動かすようになりました。
740年(天平12年)藤原広嗣が玄防や諸兄を追い払おうとして、九州で兵を挙げました。

そこで政府は1万5千あまりの兵を送り、広嗣を攻めました。
広嗣の軍は敗れ、広嗣は捉えられ首を切られてしまいました。

しかし、朝廷に勢いを奮っていた玄防は、5年後には勢力を失い、九州へ追いやられてしまいました。
玄防を追い払った後、光明皇后の甥にあたる、藤原仲麻呂が政治を動かすようになりました。

仲麻呂性は光明皇后から信頼されたので、思うままにに権力をふるい、恵美押勝と名のって、右大臣になり、760年(天平宝字4年)には太政大臣の位につきました。

淳仁天皇の時代の760年(天平宝字4年)に光明皇后が亡くなると、仲麻呂の勢いは衰え初め、代わって僧の道鏡の勢いが強くなってきました。

そのころ、実際に政治をとっていたのは、淳仁天皇よりも女帝の孝謙上皇でした。
道鏡は上皇の病気を治し、上皇の信頼を受けて、どんどん位が高くなりました。

仲麻呂は道鏡を退けようとして、764年(天平宝字8年)に兵を挙げましたが、敗れて殺されてしまいました。

濠巴天皇に代わって孝謙上皇が再び位につき、称徳天皇となりました。
道鏡は太政大臣となり、さらに法王となって天皇と同じ扱いを受けるほどに出世をしました。

道鏡の弟の浄人ははじめ一族や、弟子たちまで重い役めにつきました。
道鏡はやがて、自分が天皇になりたいと考えました。

そのころ、浄人が九州の大宰府で役人をしており、その手下に中臣習宜阿曽麿がいました。

阿曽麿は「道鏡を天皇にしたら、天下が平和になるという宇佐八幡のお告げがあった」といって、道鏡を喜ばせました。

そこで、称徳天皇の命令をうけて、和気清麻呂が宇佐八幡のお告げを確かめにいきました。

帰ってきた清麻呂は「道鏡のような良くない者は、早く退けよ」との神のお告げだった、と報告しました。

これを聞いた道鏡は、おおいに怒り習清麻呂を大隅国(鹿児島県の一部)に流してしまいました。
この頃、道鏡を退けようとする貴族の動きは益々、激しくなりました。

770年(宝亀元年)、称徳天皇が死ぬと、道鏡の勢力は急に気弱くなり、とうとう位を奪われて、下野国(栃木県)へ流されてしまいました。

このように奈良時代の終わりには僧のために政治が、たいへん乱れました。

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