今回は鎌倉時代のあらまし、日本の歴史を紹介します。


平氏の時代は、わずかしか続きませんでした。
これに代わって、全国に勢力を伸ばしたのが源頼朝です。

頼朝は、仲違いした弟の義経や、謀叛人を捕えるという名目で各地に守護や地頭なおき、武士の力を全国に広めました。

また、鎌倉に幕府を開いて、いよいよ武士による武士のための政治を始めました。
こうして以後700年近く続く武家政治のもとができました。

けれども、源氏の時代も長くは、続きませんでした。
三代で滅びた源氏に代わって、北条氏が幕府を動かすことになったのです。

北条氏の政治は、泰時や時頼の頃に、しっかりと固まりました。

ことに、北条泰時は貞永式目をつくることによって武士の社会の決まりをはっきりさせました。
泰時は「このような式目をつくれば、あずまえびすどもがへんなものを作ったなどと、都の貴族が笑うに違いない。しかし今はどうしても、このような決まりが必要なのだ。」という意味のことを手紙に書いています。

これは承久の乱によって、貴族の力を抑え、政治を確立するようになった北条氏の意気込みを、よく表したものでした。

この頃の武士は武家づくりといわれる屋敷を構えてたいてい、農村に住んでいました。
そして、主人を中心にして、一族のものや、家来たちが固く団結しているのが普通でした。

また、幕府から、地位や土地を与えられていた武士は、「いざ鎌倉」と言うときには、真っ先に駆けつけ、将軍のために尽くしました。

これは、有名な「鉢の木」の物語などからも、伺えます。
鎌倉時代には、各地に定期市が開かれ、行商人があちこちを歩き回るようになりました。

手工業が盛んになり、商業がおこってきました。
この時代には武士の世の中にふさわしい、新しい文化がおこりました。

「平家物語」「源平盛衰記」などの軍記物語が盛んに作られ琵琶法師によって語り広められました。
また、東大寺南大門の金剛力士像に見られるようなたくましい力のみなぎった彫刻がつくられました。

さらに、浄土宗・浄土真宗・法華宗・禅宗などのように、武士や民衆にも、親しみやすい新しい仏教がおこってきました。

鎌倉時代には、元(モンゴル人が中国にたてた王朝)の軍が来襲するという大きな出来事がありました。

大国元の軍が二度も攻め寄せてきましたが、鎌倉武士の奮戦や大嵐のために日本はこれを退けることができました。

元の来襲がきっかけとなって、鎌倉幕府の力は次第に衰え武士の生活も苦しくなっていきました。
幕府は、武士たちの生活を救おうと、徳政令を出しましたがこれも、結局は、武士を救うことにはなりませんでした。

こうして、1333年(元弘三年)、後醍醐天皇らを中心とする勢力のために鎌倉幕府は滅ぼされてしまいました。




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