今回は源頼朝と源義経の関係について、日本の歴史を紹介します。


1184年(元暦元年)、後白河法皇は義朝に断らないで、左衛門尉検非違使という役につけました。
その後、壇ノ浦で平氏を滅ぼした源義経は、輝かしい凱旋将軍として京都へ帰ってきました。

頼朝は、義経の名声が高まっていくのを快く思いませんでした。
そのうえ、義経が平時忠の娘を妻にしたことも、頼朝に疑いの目で見られる原因となりました。

義経は頼朝の怒りを解こうと、鎌倉の近くの腰越(鎌倉市腰越)までいって手紙を頼朝のもとへ送りました。
しかし、頼朝は義経が鎌倉へ入ることさえ許さなかったので義経はしかたなく京都へ引き返しました。

頼朝は土佐坊昇俊という者を、京都へ遣わして、義経を殺そうとしました。
そこで義経はついに心を決め、後白河法皇から頼朝を滅ぼせという命令を出してもらいました。

しかし、義経のもとに集まる武士はあまりいませんでした。

そのため、義経と義経に味方した源行家とは、法皇から九州と西国の地頭にしてもらい、わずか200騎の軍勢をつれて京都を立ち去りました。

頼朝は、むろん法皇のやり方を怒りました。
法皇は頼朝の怒りをなだめるために、今度は頼朝に義経たちを滅ぼせという命令を出しました。

義経と行家の一行は大物浦(尼崎市) から船に乗ったところ突然の大嵐のため、船が転覆してしまい、部下はちりぢりになり義経は和泉の浦(大阪府)に流れ着きました。

行家は和泉国で頼朝方に捕まって、殺されてしまいました。
義経は、極わずかの友と共に、大和国(奈良県)の吉野に身を隠しました。

その後義経は、北陸道を通って奥州平泉(岩手県)の藤原秀衡のもとへ逃げていきました。

その途中、加賀(石川県の一部) の安宅関で、偽山伏姿の義経一行が、弁慶の働きと富樫左衛門の情けで、危ないところを助けられる物語は「勧進帳」として有名です。

奥州(東北地方)の藤原氏は、清衡・基衡・秀衡の三代の間、非常に栄えました。
藤原氏が住んでいた平泉(岩手県)には都にも劣らない、にぎやかな町が出来ていました。

その藤原氏に義経が頼っていたので、頼朝にとっては、兵を奥州へすすめる口実が出来たわけです。
義経はまだ小さい頃、秀衡の世話になったことがありました。

秀衡は今度も義経は今度も義経を快く迎え、密かに頼朝との戦いの用意さえしました。
ところが、秀衡が死に子の泰衡が後を継ぎました。

1189年(文治5年)泰衡は頼朝の勢いを恐れ、衣川の屋形の義経を襲いました。
義経はついに自殺し、30年の短い一生を閉じました。(諸説あり)

同じ年の7月、頼朝は義経を匿っていた罪を理由にして藤原氏を攻め滅ぼし東北地方を手に入れました。

平氏を滅ぼして九州の西の端まで従えた頼朝は、泰衡を殺して東北地方を支配することになり、全国を統一をほぼ成し遂げました。

勧進帳とは?

勧進帳は、有名な歌舞伎の一つで義経主従が、苦労して安宅閑(石川県小松市安宅町)を越える様が、描かれている芝居です。

兄の頼朝に追われた義経は、山伏姿の弁慶ら、四人の家来を連れて、奥州(東北地方)の藤原氏へ落ち延びる途中、安宅関に差し掛かりました。

頼朝から義経を捕えよとの命令を受けていた関守の富樫左衛門は山伏すがたの義経一行を止めます。

弁慶は、我々は戦いで焼けた東大寺を立て直すための勧進(寺社を建てるために金品を寄付するよう、々に勧めること)をして周る山伏だと名のります。

富樫は、山伏に限り、一人も通すことはできない、たって通るなら命をもらうと聞き入れません。

このうえは仕方ないと、弁慶たちは最後のつとめをして大人しく殺されようとお祈りを始めました。

その感心な心掛けに富樫は感服して、まことに東大寺勧進の山伏なら勧進帳をもっているだろう。
それを妙ではないかと迫ります。もとより勧進帳はありません。

しかし弁慶は落ち着いて一巻の巻物を取り出し、勧進帳と見せかけ、読みあげます。

これを聞いた富樫は、今は疑いが晴れたが、ついでに2,3訊きたいと山伏の服装の言われなどについて、訊ねます。

この問いにも弁慶は鮮やかに答えます。
ここに、疑いは全く晴れ、義経の一行は通り抜けようとします。

ところが、義経が富樫の家来に見とがめられます。

これは見破られたか、一大事とばかり、弁慶は涙を呑んで義経を、金剛杖で、散々に打ちます。
弁慶の苦しい心の内を察した富樫は、その通行を許します。

富樫の目を誤魔化すためとはいえ、主君を打つなんて、恐ろしいとをしたと弁慶は義経に泣いて詫びます。

義経は、怒るどころか、弁慶の手をとって、危ういところを助かったのは弁慶のお蔭と喜びます。
一行が、経とうとするところへ、富樫が酒を持ってきて、弁慶たちにすすめます。

弁慶は喜んで酒を飲み、舞を舞います。

そして、義経主従は富樫に別れを告げ、安宅関を後にします。
これは、もちろん物語ですが、義経主従の苦心がよく伺えます。

義経は今も人気があり、判官贔屓という言葉の語源になったのもこの義経です。