今回は鎌倉時代の武士の生活について、日本の歴史を紹介します。


この時代に武士と言われる人たちは農村の地主でした。

もちろん、彼らは幕府の御家人ですから、鎌倉の幕府へ出かけたり幕府の指図するところへ出かけたりしますが、やはり彼らの根拠地は農村でした。

鎌倉武士たちが、武芸の道に励むことが出来たのは都から遠く離れて田舎に住んでいたからだとも言えますね。

武士たちは農村で生活し、農村を治めながらまさかのときに役立つ武芸を練習していました。
馬に乗ったり、狩りをしたり、刀や弓矢の使い方を練習したりして武芸の道に励んだのです。

武士たちが持っている、農村の領地は彼らにとって、大切な暮らしの土台でした。
彼らは治めている土地の名前を自分たちの名字にするようになりました。

そして守護や地頭の武士たちと、領地内の農民の間は、たいへん深く結ばれていました。
武士の屋敷は農村の中で村全体を見渡せる高台とか、交通の便利な平地などにありました。

広い屋敷の周りには、深い掘りや垣根が巡らしてあったので人々はこれを堀の内とか垣の内と呼びました。

武士の家は、普通の農民の家とは違っていて、その造りは武家造りと言います。
家来のいる部屋・倉庫・馬小屋などに取り巻かれた屋敷のほぼ中央に主人の住む母屋があります。

屋根は、ほとんど板ぶきか、茅ぶきで、床は板じきが多く、畳のあるところは、わずかな部分という、質素なものでした。

夜になると、庭では、家来たちが夜通し、警戒にあたり、当番でない者も、枕元に武器を置いて、いざというときには、飛び出せるようにしていました。

広い屋敷の周りには、田畑があり、屋敷内に住む家来たちが、耕作していました。
武士たちは、自分の領地を守り、それを広げていかなければなりません。

そのために、常日頃から武芸を磨き、周りの敵と戦う用意を怠りませんでした。

武芸の道は、武士の生活にとって、欠くことのできないもので農村の人々が暮らしを立てていくために、獣を獲ったり、田を耕したりするのとは生活のためという点で、代わりはありません。

同じ狩りをするにしても、武士はこれで武芸を磨き農民はこれを生活の足しにしていたのです。

吉見二郎という武士がいましたが、彼は詩歌を作ったり、音楽を好んだりして武勇を軽く考えたばかりに上京の途中遠江国(静岡県の一部)で山賊に殺されてしまいました。

弟の男衾三郎(おぶすまさぶろう)は「武勇の家に生まれたからには、武芸の道に励むべきだ!歌を作り、琴を弾き、笛を吹いたところで、なんの役にも立たない。自分の家の者は女や子どもに至るまで、荒馬を乗りこなし、弓矢を弾く練習を怠るな」と、日頃から武芸に励んだので、山賊は男衾三郎を避けて通したと言われます。

このように武芸は非常に重んじられ、やぶさめ・かさがけ・犬追物や、狩りなどが行われました。

かさがけは走る馬上から、かきの形をした的を射るもの、やぶさめもまた走る馬上から板の的を射るものです。

犬追物は馬に乗って、走る犬を射るものです。狩りはの武士の間にしばしば行われました。

頼朝が那須野(栃木県)や富士の裾野で行った巻狩りは有名ですが、これも、武士たちの武芸を磨くために、幕府を中心として行われたものです。