今回は封建制度について、日本の歴史を紹介します。
鎌倉に住み、武士たちに号令する主君頼朝は、鎌倉殿と呼ばれ頼朝に仕える武士は関東の御家人、あるいは鎌倉殿の御家人と呼ばれました。
この呼び名は北条氏にまで受け継がれました。
鎌倉幕府の中で、源氏が滅び、北条氏がその実権を握るようになりました。
それまで、鎌倉幕府は源氏の将軍の幕府でしたが、北条氏が執権となってその勢いを強めるにつれ、幕府も北条氏の幕府に代わっていきました。
そして、北条氏も中頃から鎌倉殿と呼ばれるようになりました。
つまり、鎌倉殿と言えば、もともと源氏の将軍を指していたのですが北条氏が民執権の地位を固めてくるに従って、鎌倉殿とは執権北条氏を指すようになったのです。
御家人というのも、初めは源氏の将軍の家来でしたが、後には幕府の家来を一般に鎌倉殿の御家人というようになりました。
鎌倉殿が源氏の将軍から執権北条氏に代わっても、御家人たちは北条氏を中心に固く団結して、鎌倉幕府を守り抜きました。
御家人は土地を鎌倉殿から貰って、その領地を鎌倉殿に認めてもらいそのかわりに武力をもって鎌倉殿に尽くしたのです。
領地を認めてもらうことを御恩と呼び、この御恩に対して御家人たちは鎌倉殿に奉公するという関係が、鎌倉殿と御家人の繋がりでした。
「鉢の木物語」は、御家人たちの団結と、鎌倉殿への奉公を示すものとして有名です。
この頃の武士たちは、主従の間が、固く結ばれて他に一族の団結も非常に強いものでした。
1247年(宝治元年)関東で最も大きかった豪族の三浦泰村が北条氏のために鎌倉で滅ぼされました。
そのとき泰村の妹の婿である上総介秀胤も、上総国の一宮(千葉県)のやかたで北条氏の兵に取り巻かれました。
秀胤はかねて用意していた薪をやかたの周りに積み上げて火をつけ攻撃を防ぎました。
しかし、奮戦も虚しく、とうとう破れ、秀胤はじめ、その子どもたちはみな自殺しました。
秀胤の弟に下総次郎時篇という人がいました。
彼は死んだ父の残していた領地、垣生庄を治めていましたが秀胤のために取り上げられてしまいました。
そのために、日ごろ秀胤を恨みに思っていました。
ところが、その一族に対する北条氏の攻撃のときには、時常も秀胤の軍に加わりおおいに戦い、秀胤とともに自殺しました。
一族の団結は、このように固いものでした。
下総次郎時常の話からもわかるように、御家人である武士の一族は固く団結していました。
彼らは、初めは源氏の将軍から、後には北条氏の執権から領地を認めてもらうことで、固く結びついていました。
こうした、土地を仲立ちとした主従の繋がりを封建制度といいます。
このように、御家人が将軍や執権から受ける御恩と御家人が鎌倉殿に対して尽くす奉公とは土地をもとに結びついていました。
御家人が、将軍や執権と結びつくだけではありません。
御家人とその家来たちの間も、同じように固く結ばれていたのです。
その結びつきを示すのに、次のような話があります。
工藤行光という武士に勇敢な三人の家来がいました。
そして、彼らの勇敢な働きを聞いた将軍頼家が、その内の一人を召し抱えたいと申し出ました。
ところが、工藤行光は言うことを聞きません。
「いままで多くの戦いに出ましたが、三人のお蔭で命を救われたことはたびたびありました。今頼りにするのは、この三人だけです。」と、頼家の申し出を、きっぱり断ったそうです。
主人と家来たちが、土地を仲立ちとして結ばれており、しかも、上から下まで主人と家来という繋がりで固く結ばれている世の中のことを、封建制度の世といいます。
封建制度は、頼朝の時代に始まって、次第に社会の全体に行き渡っていきました。
鉢の木物語
上野国(群馬県)の佐野というところに佐野源左衛門常世という落ちぶれた御家人がいました。
ある大雪の夜、常世は道に迷った旅の僧を泊めてやりました。
しかし、囲炉裏にくべる、薪さえ無かったりで、大事な鉢植えの木を切って僧を温めてやりました。
そして、常世は、「落ちぶれてはいるものの、鎌倉殿の御恩は、決して忘れてはいません。
もしも鎌倉に一大事が起これば、第一番に駆けつけるつもりです」と語りました。
やがて春になり、鎌倉から、関東の御家人一同集まるようにと命令が出ました。
常世も、痩せ馬に鞭打って急ぎました。
御家人一同が幕府の役所の庭に集まったとき、常世は執権北条氏の前に呼び出されました。
常世が顔を上げると、執権の傍に、いつぞやの旅僧がいました。
この僧こそ、前の執権の最明寺入道北条時頼だったのです。
時頼は、言葉通り駆けつけた常世を御家人の手本であるとたいへん褒め多くの領地を与えました。