今回は鎌倉時代に盛んになった市と行商人について、日本の歴史を紹介します。


鎌倉の町は頼朝が住むようになってから、段々賑わってきました。
町の中心は鶴岡八幡宮に通ずる若宮大路で、幕府の建物はその近くにありました。

幕府の屋敷の周りには、畠山氏・和田氏・三浦氏・北条氏など幕府の主だった家来の館が、立ち並んでいました。

武士の家は、たいてい東御門・西御門・雪の下・小町・大町・二階堂・浄明寺などの山の手にありました。

これに対して材木座・由比ガ浜・坂ノ下などが下町でした。
当時の鎌倉の様子は、京都から鎌倉へ来た人が書いた「海道記」に詳しく載っています。

商業が盛んになり、ほうぼうに商店が立ち並んでいました。

幕府は1251年(建長三年)に、大町・小町・米町・和加江・大倉辻・気和飛坂・亀が谷辻の七か所のほかでは、店を開かせないことに決めました。

由比が浜には、数百そうの船が、いつも入っていて、たいへん賑わいました。
武士の館や商人の家など、多くの家が軒を並べていたので鎌倉には火事が多かったようです。

鎌倉には鶴岡八幡宮のほか、多くの神社や寺が建てられました。
幕府は鎌倉の町を治めてくために、「保」(町な四つ垂あわせた区わけ) の奉行人をおきました。

奉行人は泥棒を捉えたり、相手から無理に安く値切って買いとる押買いを取り締まったり、酒の売買を禁じたり、博打や人身売買を取り締まったりしました。

その他、保の人々には橋や・道路を直し、掃除する義務がありました。

鎌倉時代の代表的な都市は、鎌倉と京都の二つでしたがこの間の行き来が盛んになり、街道すじは、賑やかになっていきました。

市も次第に盛んになり、付近の農民や行商人らが、たくさん市に集まってきました。
農民の中でも、名主は自分の土地を持ち、これを小作にだして、他の農民に耕させていました。

これらの名主の手には、農業技術の進歩も手伝って年貢を出した後の余った農作物が残るようになりました。

名主たちは、これらの農作物を市にだすようになりました。

そして、余ったものばかりでなく、市にだす目的で農作物・衣類・農具などをつくり、どんどん金を儲けました。

勢いの強い名主は、御家人の土地を買ったり、彼らに金を貸したりするようになりました。

こうして、九州地方や東北地方まで、いたるところに市がたち、いろいろな品が出回りました。
市は神社や寺の門の前、大きな道路の交差点、荘園の役所の近くなどに開かれました。

日を決めないで開かれることもあり月に三度か五度くらい、日を決めて市のたつこともあり三日市とか五日市とか呼ばれました。

領主や地頭は、市の商人に税をかけ、その代わりに市の商売を保護しました。
市には、行商人もたくさんいました。

彼らは、各地で市の開かれる日を知っていて、市に集まりまた、その付近を歩いて盛んに商売をしました。

商業の発達につれて、職人の種類も多くなりました。
材木を切り出す人を山人、薪をとることを職業とする人をきこりといいます。

また、草かりもいて、牛馬の餌や草肥の材料に草を刈りました。
そのほか、炭焼きやいかだ師、船を造る船大工もいました。

山人に対して、漁業をしている人を浦人といいました。
海で働く人には、そのほか海女や塩をつくる塩くみ男・塩かき男がいました。

金や銀を掘り出すもの、薄打ちといって金などな叩いて、薄くする者もいました。
鍛冶屋は主に農具や日用の道具をつくりました。
日用品としては、そのほかにおけ屋・傘屋・扇屋などがいました。

武士の世の中に相応しく、刀鍛冶・弓つくり・矢細工・鎧つくり・革屋など職人はかなり忙しかったようです。

革屋の家の天井や壁には、いろいろな革製品や材料の毛皮などが吊るしてありました。
仏教関係でも、いろいろな職人がいました。

仏像をつくる人を仏師、数珠をこしらえる人を念珠挽といいました。
経師は、お経を折本や巻物などに貼る仕事をしていました。

仏教関係の職人はみな、僧に似た姿で仕事をしていました。
大工、左官などの職人もあり大工のことを番匠といい、左官を壁塗りといいました。

番匠たちは、手斧・さしがね・すみなわなどを使って仕事をしました。
番匠のほかに、家具をつくる職人もいました。

彼らは畳をつくったり、すだれを編んだりしました。

そのほか、陶器をつくる人、まき絵をつくる人、刀を研ぐ研ぎ屋、獲った魚を料理する料理人などの職人が、それぞれの業に励んでいました。