今回は鎌倉時代の文学の特色について、日本の歴史を紹介します。


鎌倉幕府ができてから、政治は武士が動かすようになりました。
そのため、文化の上でも、武士の世らしい力強さがあらわれました。

もちろん、平安時代の貴族の文化が無くなってしまったりではなくまだかなり強く残っていました。
武士は、貴族の文化を取り入れながら、武士独特の文化を作り出していったのです。

また、鎌倉文化の特色の一つとして、建築や仏教の上に元や宋(中国)の文化の影響が見られます。
鎌倉時代になると、武士や戦争のことを書いた軍記物語があらわれました。

その代表的な作品には「保元物語」「平治物語」「平家物語」「波平盛衰記」などがあります。

「平家物語」は軍記物語の中で、もっとも優れたもので源氏と平氏の戦いの様子や、平氏が滅んでいく姿が美しい文章で描かれています。

その作者は、はっきりわかっていません。

軍記物語は、びわ法師という坊さんが語って歩いたもので何度も語られていくうちに、段々整っていき、立派な文学となりました。

軍記物語には、儒教や仏教の思想が流れています。

人間の生きる世の中は、常に変わっていくもので儚いものだという考えを元にして、武士の勇ましい行いや死を恐れない姿とか、主人と家来の深い繋がりなどが、活き活きと書かれています。

また武士の勢いに押されて、衰えていく貴族の哀れな姿も描かれています。

「平家物語」に内容がよく似ている「源平盛衰記」は、四八巻もありますが文学としてはあまり秀れた作品とは言えません。

多くの武士たちは、歌人として有名な貴族から、歌を教えてもらいました。
藤原俊成とか、藤原定家など優れた歌人が出ました。

承久の乱で有名な後鳥羽上皇は、歌人として秀れていました。
上皇は多くの歌人に言いつけて「新古今和歌集」という歌の本を作らせました。

この歌集には貴族の歌が多く、その歌風は農村風な素朴さを示す「万葉集」に対して、都会的な美しさを持っているといえます。

また、旅の歌僧としての一生を送った西行の歌も、たくさん選ばれています。
鎌倉幕府の三代将軍源実朝は、京都の文化に憧れ、歌人としても優れていました。

「金槐和歌集」は、実朝の歌集で、700あまりの歌が収めてあります。
金槐の金は鎌倉の「鎌」のへん「槐」は中国で大臣のことですから鎌倉右大臣という意味です。

「金槐和歌集」には、貴族的な歌が多いのですがやはり武士らしく「万葉集」の歌に似た力強いものも見られます。

この頃、争い続きの世の中を悲しく思い、寂しくなって世を捨て自分の気持ちを思いつくままに書いた随筆集があらわれました。

その代表的なものと言われる「方丈記」は鴨長明が「徒然草」は吉田兼好(兼好法師ともいう)が書いたものです。

武上の政治が安定し、文化が高まってくると武士の中からも北条実時のように、図書館をつくる人物もでてきました。

実時は義時の孫で、若い頃から学問が好きで儒学を学び多くの書物を集めました。
年をとった実時は、政治から離れ、武蔵国金沢(今の横浜市金沢区)に引きこもって図書館を建て、自分の持っていた本をそこに蔵めました。

これが金沢文庫です。

実時の子どもの顕時や貞顕も学問を愛したので、本は次々と増えていきました。

・琵琶法師とは
鎌倉時代の初め頃、農村を回っていろいろな軍記物語を語って歩いた、盲の坊さんがあらわれました。
これが、琵琶法師です。

粗末な衣を着て、大きな琵琶を肩に背負い、村々を周りました。

そして、神社や寺の境内など、人のたくさん集まるところで、琵琶を弾きながら簡単な節をつけて様々な物語を語り、物ごいをして生活をたてていました。

文字も読めず、新聞やラジオもないこの頃の人々にとって琵琶法師は、たいへん喜んで迎えられました。

人々は戦の場面や、強い武士の姿に手を叩き滅んでゆく貴族や武士の哀れな様子に涙を流しました。