今回は鎌倉幕府が衰えてきたころの日本の歴史を紹介します。

二度にわたる元の来襲と、海岸の守りのために幕府の財政はだんだん苦しくなっていきました。
同時に御家人の生活も苦しいものになりました。

商業が発達し、いろいろな物が出回ってくると御家人たちの生活は、自然と贅沢になり生活費がかさみました。

御家人の中には、農産物を安く売ってお金を手にいれたり、高利貸しから借りる者もありました。(借上)

その上、元との戦いがおこり物入りが多くて生活はますます苦しくなりました。
御家人の中には、自分の領地を売り払うものも少なくありませんでした。

そこで、御家人はそれまでのように、幕府の言いつけ通りに尽くすことな疎かにするようになりました。
御家人は、幕府を支えている力です。

その御家人が暮らしに困って、土地を売るような状態では幕府のカも弱くなるわけです。
1297年(永仁五年)幕府は困っている御家人を救うために徳政令をだしました。

徳政令は、御家人が土地を売ったり、質に入れたりすることを禁止し、すでに売り払ったり、借金のかたに取られたりした土地は、ただで御家人に返させるという命令です。

これには例外があって、買いとられた土地を買い主のものとして幕府が認めてしまった場合や、土地が今の持ち主の手に移って20年以上もたった場合には、返さなくてもよいという決まりでした。

徳政令には、そのほか裁判について、不服を申し立てたり、お金を借りた者が、返さないからという訴えは一切受付ない、という決まりもありました。

徳政令のおかげで御家人の生活はしばらくの間、楽になりました。
ところが、今度は、誰も御家人に金を貸そうとしなくなりました。

そのため、御家人の暮らしはかえって苦しくなりました。
幕府はわずか一年たらずで、徳政令を引っ込めました。

御家人に比べて、名主の力は次第に大きくなっていきました。

勢いの強い名主は農民たちを率いて、武器を持ち地頭や荘園領主に手向かいしました。


鎌倉時代も終わりになると、名主は幕府の力では抑えることができないほど強くなりました。
名主や農民たちの反抗は、特に商業の発達した近畿地方に多くおこりました。

幕府に不満を持つ御家人や名主たちが、幕府に手向かいするようになると、やがて鎌倉幕府そのものが、崩れていくようになりました。

執権北条氏の内部にも、いろいろの騒動がおこり、自然とその力な弱めていきました。
1284年(弘安七年)、時宗が死に、その子貞時が14才で執権となりました。

その頃、北条氏の主な家来、安達泰盛と、長崎頼綱の2人が争っていました。
ついに頼綱は貞時の命令だと言って泰盛を討ちました。

その後、頼綱は権力を独り占めにして、自分の子を将軍の位につけようと企んで殺されてしまいました。
1316年(正和五年)、貞時の子の高時が、14才で執権となりました。

高時は、政治家としては、つまらない人間で、都から田楽法師を招いたり犬を集めて闘犬をやらせたりして遊んでばかりいました。

田楽というのは、もともと農民が田植えのときに行った踊りのことですが次第に田楽を専門とする法師が現れるようになったのです。

高時は、田楽のほか、何もしないと言われるほど夢中だったと言われます。

こんな有様でしたので、政治の実権は、長崎円喜とその子高資がにぎり賄賂を取ったりして悪い政治を行ったので、幕府の信用は無くなるばかりでした。

世の中は、ますます乱れ御家人の内輪もめがおこったり武力を持って集団で暴れまわる悪党や、農民の騒ぎがおこっても幕府には、もう抑える力がありませんでした。

こうして元の来襲以来、急に衰えてきた執権北条氏の世の中も、いよいよ、滅びるときが近づいてきたのです。

縁切り寺

鎌倉市にある東慶寺は、縁切り寺とか、駆け込み寺とも呼ばれ執権北条時宗の妻であった覚山禅尼が建てたものです。

時宗が亡くなった後、子の貞時が執権となりました。

このとき、禅尼の兄や従兄弟が、幕府を倒そうという計画をたてそれがわかって、一族が皆殺しになるという悲しい事件がおこりました。

板ばさみになった禅尼は、お経を写すことに悲しみを紛らわしましたが「仏の道を治めるということは、自分だけでなく全ての人を救うためでなければならない」という言葉に強く心を打たれました。

このころ武士の家では、女も男と同じように財産をわけてもらうことが出来ましたが、まだまだ男女平等というわけにはいきません。

禅尼は同じ女として、困っている女性を救おうと思いました。
こうして、建てられたのが、松が丘東慶寺です。

夫にいじめられている女性が、この寺に駆け込んで足かけ3年、仏の道なおさめれば、夫と離縁できると言われ女性を救う寺として、長く江戸時代の末頃まで続きました。