今回は元との戦い、文永・弘安の役について日本の歴史を紹介します。


一三世紀の初め頃、中国の北方のモンゴル高原に住んでいた
モンゴル族からテムジンという英雄があらわれました。

彼はモンゴル地方を統一し、チンギスハン(ジンギスカン)と名乗りました。
チンギスハンは強大な武力を持ち、その勢いを、どんどん広げていきました。

そして、20年ほどの間に東は満州から、西は中央アジア、南ロシアにまで領土を広げました。
チンギスハンの死後も、モソゴルは勢力を伸ばし西南アジア・東ヨーロッパへも進出しました。

1260年、チンギスハンの孫クビライが位につき、都をモンゴルのカラコルムから、燕京(北京)に移しました。

そして1271年、国の名な元とあらためました。

クビライは、中国の宋を攻め滅ぼしてついに中国全土なその手に治めました。
ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な元帝国がここに出来上がったのです。

燕京にはヨーロッパ人がたくさんやってきて、たいへん賑わいました。
イタリアのマルコ=ポーロもその1人です。

元の国では貿易が盛んに行われて、都市も栄え南京や松江(上海)などは人口100万に近い大都会になりました。

元は日本を従えようとして、1268年(文永五年)日本に使いを送ってきました。
当時の鎌倉幕府の執権は北条時宗でした。

時宗はまだ18才の若さでしたが、元の使いを追い返し返事を出しませんでした。

そして、幕府は元の来襲に備えて、筑前・筑後(福岡県) や瀬戸内海に面した国々に、厳しい警戒をするよう命じました。

クビラィイはその後も、たびたび使いを送ってきましたが幕府が返事を出さないので、たいへん腹を立て、日本を攻める用意をしました。

ついに1274年(文永11年)10月に、元は高麗の軍を交えた2万3000の軍隊900の軍船でもって攻め寄せてきました。

元軍が1万5000人、高麗軍が8000人でした。

まず、対馬と壱岐を襲い、肥前国(佐賀県・長崎県の一部)の島々を荒らして10月19日に博多湾に攻め込み、20日には上陸を始めました。

幕府の軍は、主に九州の武士たちでした。
彼らは、おおいに戦いましたが敵の勢いは強く大宰府まで退いてしまいました。


元の兵たちは、長い槍、毒の矢や、てつはうと言って、今の焼夷弾のようなものなど優れた武器をもって集団で攻めてくるので一騎打ちの戦いになれていた日本軍は、とうてい敵いませんでした。

ところが、20日の夜に大嵐がおこり、元の船はほとんど沈み1万3000人の兵が死にました。
残りの兵は高麗へ引き上げました。

これが文永の役です。

元は、一度の失敗によって諦めたわけではありませんでした。
早くも翌年(1275年)には、元に従えというクビライの手紙をもった使者がやってきました。

しかし時宗は、これを鎌倉の竜のロで斬り殺させました。
竜のロは、死刑を行う場所でした。

時宗は、元が再び攻めてくるのに備えて北九州や長門国(山口県の一部)の守りを固めさせました。
博多湾の周りは、すっかり石垣で固められました。

1281年(弘安四年)元軍は再び攻め寄せてきました。
東路軍と江南軍の二手にわかれた元軍は14万人あまりで4300そうという大軍でした。
東路軍は対馬・壱岐を襲い、博多港に攻め込んで志賀島を占領しました。

幕府軍も良く戦い、夜になると武士たちは小ぶねに乗り込んで敵船に攻め入りました。
東路軍は鷹島(佐賀県)に引き上げ、江南軍のつくのを待って、全軍で博多を攻める計画を立てました。

ところがまたも大嵐がおこり、元の軍軍船は4000あまりが沈んでしまいました。

この戦いが弘安の役です。

元はそれでもまだ、日本を従えど大嵐が吹いたこと元の軍が海での戦いになれていなかったこと、日本側が、石の砦を築いて、勇敢に守ったことなどによって大国の元軍を破ることが出来たのです。