今回は室町時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。
14世紀の初めに位についた後醍醐天皇は、公家や地方の武士の助けを借りて1333年(元弘三年)カの衰えた鎌倉幕府を滅ぼすことに成功しました。
幕府を倒した後醍醐天皇は、再び天皇中心の政治を行おうとしました。
これを建武の新政とまいいます。
けれども建武の新政は二年あまりで失敗し足利尊氏を中心にした新しい幕府が出来ました。
このため、この後60年ちかくの間、朝廷は南朝時と北朝とにわかれ武士たちは、それぞれの朝廷を旗印として、土地争いを続けました。
南北朝の争いは三代将軍義満のときに、やっと治まりました。
そして、この頃が室町幕府の勢いの最も強いときでした。
京都の北山に金閣と呼ばれる見事な建物が出来たのも勘合貿易が始まって、幕府が莫大な利益をあげたのもこの頃のことです。
ところが、その一方では、広い土地を持ち、たくさんの家来を従えた守護大名の力が将軍の力では抑えきれないほどたくましく伸びてきていたのです。
そのため、義満のころにも将軍と守護大名との争いが度々おこりました。
やがて1467年(応仁元年)、京都を中心にして応仁の乱がおこり将軍の無力が、はっきり示されることになりました。
この乱は、将軍家や有力な大名の内輪もめが、細川・山名両大名の争いと結びついておこったもので全国の大名が二つにわかれ、11年続けられました。
そしてこの後、各地の大名は、それぞれ自分の領地を治め、さらに領地を広げようとして、互に争いました。
こうして、戦いに明け暮れする戦国の世が100年あまりも続くのです。
応仁の乱のころ将軍の位についていたのは足利義政で義政は、政治のことには、あまりカを入れようとはせず茶の湯に親しみ、生け花や絵を楽しむような生活を、送っていました。
そのため、この頃には世の中が乱れたのにも関わらず新しい文化が盛んになりました。
この頃の文化を東山文化と呼んでいます。
東山というのは、足利義政の別荘である、銀閣があったところです。
今の私たちの生活の中にも、この頃の文化から引き継いだものがいろいろと残っています。
新しい文化がおこる一方では職人の種類もさまざまになり商業の仕組みも整ってきました。
各地に町が出来、店が立ち並ぶようになって、お金さえ出せば欲しいものが買えるようになったのも、この頃のことです。
また、農村や町では町や村を、自分たちの力で治めるようになっていきました。
農民たちは、村決めを作って村の平和を守ろうとしたり土一投をおこして、無理を言う領主や高利貸しに手向かったりしました。
また町でも堺などは、自治の仕組みが、よく整っていることで有名でした。
室町時代の終わり頃には、新しくヨーロッパとの付き合いが初まりました。
まず、種子島(鹿児島県)に流れついたポルトガル人が鉄砲を伝え、ついで、キリスト教も伝わってきて、多くの宣教師が日本を訪れました。