今回は鎌倉幕府が滅びたころの日本の歴史について紹介します。
鎌倉幕府は、元冠の後、次第に衰えてきました。
そして、源頼朝が幕府を開いてから約150年で、ついに後醍醐天皇に味方して立ち上がった
武士たちのために滅ぼされてしまいました。
鎌倉幕府が出来て、武士が政治を行うようになったことは、皇室や貴族たちには、非常に不満なことでした。
後鳥羽上皇が、幕府を倒そうとして失敗した承久の乱も、その不満の表れです。
承久の乱の後、しばらくの間、朝廷の勢いは奮いませんでした。
後醍醐天皇は、14世紀の初めに位につきました。
天皇は、働きのある貴族たちを、家柄に関係なく重く用い政治に力を入れました。
そして、幕府が天皇の後継のことにまで口出しするのを怒り、しかも幕府が衰えていると見て、幕府を倒す決心をしました。
天皇は、日野資朝・日野俊基らと相談し1324年(正中元年)幕府を倒そうとしました。
しかし、この謀は幕府に気付かれてて失敗し資朝は佐渡に流されてしまいました。
これを正中の変といいます。
幕府を倒す第一回の計画は、このように失敗しましたけれども天皇はそれに挫けず、それから7年後に、また幕府を倒す計画を立てました。
しかし、この計画もまた、幕府に知られてしまったのです。
天皇は笠置山(京都府)に逃げましたが、幕府の軍に捕まえられ隠岐(島根県)に流されました。
これを元弘の変といいます。
元弘の変のとき笠置山へ逃げた天皇は、そこで味方の軍を集めました。
そのとき、真っ先に駆けつけたのが、河内(大阪府の一部)の楠木正成でした。
正成は、天皇が隠岐に流された後もわずかな兵を率いて赤坂城や千早城に立てこもりました。
そして、優れた謀で幕府の大軍を苦しめ、勇ましく戦い続けました。
また、後醍醐天皇の皇子護良親王は国々の武士に幕府を倒せという命令を出しました。
これにこたえて、天皇に味方する武士が、だんだん各地にでてきました。
いっぽう隠岐の天皇は、この様子を見て、こっそり島を抜け出し伯曹(鳥取県の一部)の地頭名和長年に迎えられて船上山(鳥取県)に移りました。
そこで、幕府は足利尊氏らを大将として、大軍を京都に攻め上らせました。
ところが、前から幕府に不満を持っていた尊氏は急に天皇の味方に変わってしまいました。
そして、幕府にとって大切な京都の六波羅探題を責め滅してしまったのです。
これを見て、今までどちらにつこうかと、様子を見ていた国々の武士たちはぞくぞくと天皇方につくようになりました。
しかも同じころ、上野国(群馬県)の新田義貞が一族を率いて鎌倉に押し寄せ北条高時らを自殺させました。
ときに1333年(元弘三年)、鎌倉幕府はついに滅びてしまったのです。