今回は起請文・会合の制について、日本の歴史を紹介します。

起請文

村決めには、村人分つまり村の平和を乱すと村から追い出すなどの厳しい掟がありました。
農民は自治を支えていくために互いに起請文を取り交わしました。

起請文というのは、守ろうとすることを書きとめてこれを破らないことを神に誓った書類です。
農民が作った起請文にはまず村決めのことを記し、それを守ることを神に誓い、もしこれに背いたら村八分になっても構わないと書きます。

そして、年月日の下に、名前を書き血判を押します。

血判というのは、小指の先を切って血を出し、それを判子の代わりに押したものです。
農民たちは、互いにこのような起請文を取り交わし、いよいよ団結を固めたのです。

これらの起請文の中には、もしも、自分たちの村が外から敵に攻められたときには、命を捨てて、戦うことを誓い合ったものさえあります。

そのために、周りに掘りを掘って、守りを固めた村まで現れてきました。

自治の町 堺

農民に自治制ができてくるとともに都市の町人にも、自分たちの住む町の政治は自分たちの手で行いたいという気持ちがおこってきました。

自治を行った町の中でも特に名高いのは、和泉(大阪府の一部)の堺です。

堺は、大阪の南にあり古くから海陸の交通の上で大切なところとして知られていました。
これが港町として、特に発達してきたのは室町時代の始めから中頃にかけて海外貿易が盛んになりだしてからのことです。

この頃、堺の町人たちは室町幕府や領主の細川氏の命令な受けて中国や南方諸国との貿易にのりだし、たいへんに儲けました。

応仁の乱の後は、世の中に争いが絶えず、せっかく豊かになった町を焼かれる恐れが出てきました。
そこで、町人たちは、自分たちの町を守るために自治制を行うことを申し出て領主の許しを得ました。

はじめは、領主のところから代官が遣わされ見張りを受けていました。

しかし、室町時代の終わり頃に領主の細川氏が衰えるとともに完全に独立し、町の政治をすっかり自分たちの手で、行うようになりました。

そして、町年寄、月行事などを町人の中から選び、これらの人々は、話し合いで町の政治を進めました。
このような政治の仕組みを、堺の町の場合会合の制といいます。

会合の制

会合の制は、36人の町年寄から成り立ち彼らは、会合の衆と呼ばれています。
会合の衆は、みな、金持ちの商人でした。

その頃は、戦の、絶え間がなかったので彼らは外敵が攻め込んでくるのを防ぐためいろいろのことをしました。

まず町の周りに堀を巡らし、その内側に土居と呼ばれる土手のような囲いを築きました。
そして町の周りに木戸をおき、いざというときには、それを固く締め、浪人(どの大名にも仕えていない武士)を雇って守りを固めました。

そのため、町の中はいつも平和で自由に商業を行うことができ店もたいへん、繁盛していました。
自治制度をもつ町は堺のほかにも、伊勢の宇治山田や、大湊(どちらも三重県伊勢市)などがありました。

摂津の平野(大阪市)や筑前の博多(福岡市)なども堺やま宇治山田などにつぐ自冶都市として名を知られていました。

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