今回は室町時代の村や町での決まり・規則について、日本の歴史を紹介します。
村や町のまとまり
鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争い、そして室町時代の中頃には応仁の乱というように14世紀以来、国の中はたいへんに落ち着きませんでした。
その上、応仁の乱の後では、足利将軍の勢いは次第に衰え、これに代わって国々の守護大名の勢いが強まってきました。
古いもの力は弱まり強いもの勝ちの世の中になってきたのです。
こういう乱れた世の中で自分たちの生活を守っていくために、村や町に住む農民や町人たちは、大勢の力を合わせて、1つにまとまっていきました。
崩れる荘園制度
鎌倉時代に、全国に守護・地頭がおかれてから荘園は、次第にそれらの武士たちに、よって奪われていきました。
荘園領主である、都の貴族や神社・寺院などは、なんとか、これを食い止めようとしましたが実力のある武士たちには敵いませんでした。
そして、鎌倉時代の中頃からは、下地中分といって、地頭に荘園の半分を取られるようになってしまいました。
また、南北朝の頃か残る半分の荘園から取れる年貢もその半分を守護大名に奪われ、ついには、荘園そのものまでも守護大名に乗っ取られてしまうのです。
そして、荘園領主たちは年貢か少しも取れなくなり次第に衰えていったのです。
村決め
農業が進歩し、農産物の取れ高が増してくるにつれて勢いの強い名主(地主)たちは、生活にゆとりができてきました。
そこで彼らは武カをたくわえ土地の豪族となり、独立して村々を支配するようになってきました。
農民たちも、そのような土豪としっかり手を繋ぎ合い、重い年貢や外からやってくる乱暴者などから自分たちを守ろうとしました。
そのため彼らは、自分たちの間で村決めとして規則を作りました。
農民たちは、このようにして自分たちで政治を行うようになったのです。
村の政治は、長とか沙汰人などと呼ばれる人々によって行われました。
これらの人々は、今で言えば村長のようなもので、たいてい勢いの強い名主から選ばれました。
これらの名主は、農民の代表として荘園の領主といろいろな交渉をしましたが、また一方では、領主の家来になって農民を治めることもしました。
衰えてきた荘園領主も、このような村決めを認め、これまで地頭や守護に請け負わせていた年貢米を村々の有力者に請け負わせました。
このことを、百姓請とか地下請といいます。
村にとって大事な事柄は、農民たちの寄り合いの席で決められました。
寄り合いは、村の鎮守様と呼ばれる神社や寺などで行われました。
そして、正月・お盆・節句のときなど決められた日に集まりました。
また必要なときには、臨時に寄り合いを行いました。