今回はキリスト教の伝来とザビエルについて、日本の歴史を紹介します。

フランシスコ=ザビエル

1549年(天文一八年)の夏、つまり、鉄砲が伝わってから6、7年のちのこと、鹿児島へ一艘のジャンク(中国のほまえ船)がつきました。

この船には、フランシスコ=ザビニルのほか7人ほどの人々が乗っていました。
ザビエルを案内してきたのはアンジローという日本人でした。

アンジローは鹿児島の生まれでしたが罪をおかし、心の苦しみに耐えられないで日本を逃げ出したのです。

そして、マラッカで、評判のザビエルに会い苦しみを打ち明けて、心が楽になりました。
アンジローはザビエルの導きでキリスト教の信者になりました。

ザビエルは、アンジローの利口で賢いことに感心し日本人がみなアンジローのようなら素晴らしいぜひ日本へ行こうと、決心したのです。

ザビエルの働き

ザビエルは早速、鹿児島の大名島津貴久に会い町で教えを広める許しを得ました。
そして、お寺の境内に行ってはあまり上手ではない日本語で説教をしました。

鹿児島の人たちは、ザビエルがインドから来た坊さんだと聞いてたぶん、仏教の一派だろうぐらいに考えました。

そのうちに、仏教の攻撃を初めましたので僧たちは、ザビエルを追い出しにかかりました。
ザビエルは、一年ほど鹿児島にいるうちにだんだん日本の様子がわかってきました。

都へ行けば、天皇という偉い人がいるそうだ。
天皇に会って、日本中どこでも教えを広めてよいという許しが欲しいと思うようになりました。

ザビエルが、このことを島津氏に話しても許してもらえませんでした。
島津氏は、ザビエルがいなくなってポルトガルの船が来なくなっては大変だと思ったのです。

島津氏がたいへんだと思ったのは外国の珍しい品物が来なくなっては困るからです。
ザビエルは、思いきって、都に上ることにしました。

そして、アンジローにあとを頼み、平戸(長崎県)・博多(福岡市)・瀬戸内海をへて遥々、都に上りました。

ザビエルが都に着いたのはもう戦国の世も終わりに近い頃で天下は全く乱れ、朝廷や幕府の勢いは地に落ちているときでした。

彼は、荒れ果てた京都の町の有様を見て天皇も将軍も日本を治めるだけの力はないとすぐ諦めました。

そして、そのまま平戸へ引き返してしまいました。
彼は、それから出直して周防(山口県の一部)の山口へ行き大内義隆に会いました。

天皇にあげるつもりだった、時計・眼鏡などの贈り物やインドの副王からの手紙を大内氏に差し出しました。

ここで、ザビエルは教えを広める許しを得て信者もたくさんできました。
その中に、ロレンソというびっこでめっかちの琵琶法師(琵琶を弾いて物語を語りお金を貰って歩く人)がいました。

彼は、説教が上手で、大変役に立つ弟子になりました。

ザビエルが山口にいる間に、ポルトガルの船が豊後(大分県の一部)の日出に着いたという知らせがありました。

ザビエルは豊後に帰り、早速船長をはじめ船員たちを大勢連れて、府内(大分市)の城に大友義鎮を訪ねました。

義鎮も喜んで、教えを広める許しを得ました。
そして、天主堂(教会堂) を作るための屋敷をくれる約束をしました。

ザビエルは、そのポルトガル船に乗ってインドへ帰りましたがまた日本に戻ってくるつもりでした。

彼が日本にいたのは2年と3か月その間にできた信者の数はやっと1000人か、1500人と言われています。

しかし、これが後には、千倍・万倍に増えるのです。



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