今回は安土・桃山時代のあらましについて、日本の歴史を紹介します。

100年あまりの間、戦いに明け暮れしていた世の中は織田信長や、豊臣秀吉によって統一されました。

信長は安土(滋賀県)に秀吉は伏見の桃山(京都府)に城を築いたので、それぞれの城の名前を取って安土・桃山時代といいます。

信長は尾張国(愛知県の一部)で勢力をふるっていた大名です。
このころ尾張国の周りには駿河(静岡県の一部)の今川氏、甲斐(山梨県)の武田氏、越後(新潟県の一部)の上杉氏などの有力な大名がいました。

信長は桶狭間の戦いで今川氏を不意打ちをし、さらに東海地方を抑えて、まず京都にのぼり全国を統一して納めようとしました。

この信長の跡を継いでで全国の統一を成し遂げたのが豊臣秀吉です。

西に東に、諸国の大名を討った秀吉は全国を平定した勢いで、さらに朝鮮にも出兵して、これを従えようとしました。

大きく、しかも堂々と美しく作り上げられた大坂城は、このような秀吉の勢いを最も、よく示していたものといえるでしょう。

秀吉は、全国を平定しただけではありません。

刀狩りや検地をし、あるいは、お金を作り交通の発達に力を入れるなど国内の政治を整えることにも努力しました。

ことに刀狩りや検地は、武士が全国をしっかりと抑え士農工商という身分の決まりをはっきりさせていくきっかけになるものでした。

例えば検地によって、農民は土地を離れたり土地を売ったりすることができなくなり、その一方で、たくさんの年貢を割り当てられるようになりました。

また、刀狩りによって武器を取り上げられた農民は武士に対して、手も足もでなくなりました。

さらに秀吉は、武士を全て城下町に住まわせることを命令しました。

これは城下町を立派にすることや、身分の低い武士が農民と一緒になって一揆をおこすことを防ぐ目的をもっていたものでした。

しかし、このことによって、武士と農民は、はっきり区別されることになったのです。
この時代には、安土城・大阪城・伏見城をはじめ全国に立派な城がたくさん造られました。

また城の中には見事なふすま絵や彫刻が美しく飾られました。
こうして、この頃の文化は城を中心にして栄えることになったのです。

秀吉は、物に拘らないたちで、しかも、派手なことを好みました。

そのため、いかにも華やかで伸び伸びとした文化が広まったことで、この時代の文化の大きな特色の一つです。

その一方では、西洋との付き合いが盛んになるにつれて、様々な珍しい文化も輸入されるようになりました。

パン・ラシャ・コンぺイトウなど今は日本語の一部になってしまったような外来語も、このころ、実物と共に伝えられたものです。

その他、活版印刷の技術や西洋画・洋楽・珍しい服装など、そのころの人々を驚かしたものも少なくありません。

これを南蛮文化といいます。

室町時代に盛んになった茶の湯や能楽は公家(貴族)や大名ばかりでなく一般の人々にも広まりました。
また、民衆の間では小歌・歌舞伎踊りなどが流行し人々の服装も、たいへん派手になりました。

長い間の戦争が終わって人々が安心して暮らせるようになったこともこのような安土・桃山時代の文化を生み出すもとになったのだと言えるでしょう。

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