今回は織田信長、桶狭間の戦いと堺の町について、日本の歴史を紹介します。

尾張の織田氏

応仁の乱の後、ほぼ100年あまりの間は各地で多くの大名たちが勢力を争い戦の絶え間がありませんでした。

しかし、やがて16世紀の半ばごろになると統一と平和を望む気持ちが高まってきました。
そのうちで、真っ先に天皇や将軍のいる京都にのぼり天下統一の糸口を開いたのが、織田信長でした。

信長は、尾張国(愛知県の一部)の大名です。

家柄は、尾張国の守護代(守護のすぐ下で守護を助ける役目)であった織田氏の家来です。
武士の頭である将軍から見れば家来の家来の、そのまた家来にあたります。

戦国時代の習わしであった下克上によって信長の父の信秀のときには尾張で最も勢いが強くなっていました。

しかし、父が死んだ後、信長が家を継ぐと、再び領内が乱されました。

また、その周りには、駿河(静岡県の一部)の今川義元、甲斐(山梨県)の武田信玄、美濃(岐阜県の一部)の斎藤道三のような強い大名が、隙を狙って、取り囲んでいました。

若い信長は、このような苦しい立場にありながら血みどろの戦いを重ね、ついに、もと守護の斯波氏や守護代の織田氏などの主人を滅して、尾張国を統一しました。

桶狭間の戦い

丁度このころ東海地方で大きな勢力をふるっていた今川義元が、京都に上ろうとして大軍を率いて尾張に攻め込んできました。

信長はこれを桶狭間の戦いで破り大将の義元も討ち取ったので、その武名は、たいそう高くなり勢いも強くなりました。

やがて東隣りの三河国(愛知県の一部) の徳川家康と手を結び、後ろを安全にした後、美濃国の斎藤氏を滅ぼして1568年(永禄11年)には、京都に上ることに成功しました。

では、信長は、なぜ他の大名よりも早く京都に上り、全国を治める糸口を掴むことができたのでしようか?

それには、まず第一に、信長の根城であった尾張が京都に近いことが非常に有利でした。
その上、この地方が、木曽川の流れる豊かな平野であったことも信長の力を強くしました。

また信長は、身分の低い者でも農民の子でも、優れた者は、どしどし取立てました。
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉) も信長に取立てられた1人です。

さらに、信長の戦いの仕方は長槍や鉄砲をもった足軽隊を中心にした新しいものでした。
馬に乗り、弓や刀で一騎打ちをするような戦いの仕方よりは、ずっと進んだやり方です。

これが、信長を成功に導いたのでした。

信長と堺の町

京都に入った信長は足利義昭を将軍の位につけ、また天皇を頂いて、さらに勢いを強め次々に大名たちを従えていきました。

しかし戦争をするにはたくさんのお金が要ります。

そこで信長は大きな寺や神社や商人たちにも寄付金を出すことうぃ命じました。
このころ外国貿易で栄えていた堺の町の商人には二万貫の大金を割り当てました。

しかし、堺の商人たちは、これをきっぱり断り、町の周りの堀を深くし、やぐらを築いて信長の軍を迎え撃つ気構えを見ました。

その上、翌年には、信長の敵に力を貸したりしましたので、信長は、たいへん怒り「命令に従わないと町を焼き払い、男も女も皆殺しにするぞ」と脅しました。

このため堺の町の商人たちも、とうとう信長に従うことになりました。

堺の町の他にも、町の住民の自治によって栄えていた町は、いくつもありましたが、このような町民の自治の政治は大名が力を伸ばすのに、邪魔になったために、どれも堺の町と同じょうに征服されていきました。

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