今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。
ザビエルが1551年(天文20年)に日本を去った後も優れた宣教師が次々とやってきました。
この結果、九州から近畿地方にかけてたくさんの信者ができ、信長の時代には、信者の数は10万人から15万人にも増えました。
そして、大名の中にも洗礼(キリスト教徒になるための儀式)を受けて熱心な信者になるものがあらわれました。
例えば、大友義鎮・小西行長・大村純忠有馬晴信・高山右近などがそれで彼らをキリシタン大名と言います。
1582年(天正10年)、キリシタン大名の中でも、とくに熱心な大友・有馬・大村の三大名は少年使節を遥々ローマに送りました。
これは、巡察使(キリスト教を広める方法を考えたり研究したりする役目)として来日していたイタリア人バリニアノの計画によるものです。
ヨーロッパの進んだ有様を日本人に直に見せるとともに、ヨーロッパ人には本当の日本人を見せて日本はキリスト教を広める値打ちのある国だということを分かってもらおうとしたのです。
そして、物事を感じとりやすいと思われる少年が使節に選ばれました。
大友義鎮の親戚にあたる伊東祐益(マンショ)が千々岩清左衛門(ミゲル)とともに正使になり、原マルチノ・中浦ジュリアンのふたりが副使になりました。
バリニアノにつれられた一行は長崎を出発しみちみち勉強をしながらマカオをへてインドに着きました。
使節はここでバリニアノとわかれ尚も進み、喜望峰を回ってついにポルトガルのリスボンに着きました。
そして、至るところで歓迎を受けながらイタリアに渡りローマ法王グレゴリオ13世に会いました。
法王は涙を浮かべて喜んだということです。
四人はローマの市民権までも贈られ珍しいヨーロッパの文化に接して、どんなにか嬉しかったことでしょう。
やがて囚人はインドをへて1590年(天正一八年)長崎へ帰りました。
実に出発のときから8年あまりも立っていたのです。
ところが、彼らが帰ってきたときは豊臣秀吉によってキリスト教が禁止されていたため使節は活動することができませんでした。
中浦ジュリアンは、最後までキリスト教を捨てなかったため、年をとってから火あぶりにされました。