今回は安土・桃山時代の人々の楽しみについて、日本の歴史を紹介します。
盛んな芸能
安土・桃山時代は、神や仏よりも今生きている人間が先だという考えの時期でした。
長い間、乱れていた天下も統一され人々は平和のうちに、伸び伸びと生活を楽しんだのです。
こうして能楽・茶道(茶の湯)・立花(生け花)風流踊り・念仏踊り・浄瑠璃・歌舞伎・隆達小歌・連歌・俳譜などいろいろな芸能が盛んになりました。
能楽
信長も秀吉も、京都で観世・金春両太夫の能を見物しましたが、秀吉は朝鮮出兵のときに本陣を置いた名護屋(佐賀県)に四座の能を呼び自分でも演じたりしています。
熱心を秀吉に見習って、大名たちも能を見たり演じたりしていますが、この頃はもう型の決まったものとなり次第に儀式用として伝えられるようになりました。
能とか謡曲(うたい)などの古くから伝わる芸能を理解し身に付けることが、信長や秀吉を初め成り上がってきた大名たちが箔をつけるための、大切な教養の一つになっていたのです。
茶の湯
今井宗久・津田宗及・千利休などという茶の湯の名人が現れました。
茶を飲む技術が、上手というだけでなくわび(静かで、慎ましい気持ち) の味わいがよくわかっていないと茶の名人と言えないのです。
茶人の中で、最も秀れた力を持っていたのは千利休でした。
利休は「ぬるい湯」を戒めています。
それは、秀吉の気持ちにぴったりした茶の湯でもあり、一般の武士たちの好みにもあっていました。
しかも利休は、堺の大商人の家に生まれながら贅沢な茶の湯を好みませんでした。
そして信長と秀吉の茶頭(茶の湯の先生)になり大名たちにも茶の湯を教えるようになりました。
その勢いは、大名たちをも凌ぐほどでした。
しかし、後に秀吉と争って自殺しました。
茶の湯の会は、趣味や他人との付き合いのためだけでなく、政治のうえでの取引とか秘密の相談などにも利用されたようです。
茶の湯の発達は、茶釜や茶碗づくりを盛んにし特に楽焼茶碗をつくった本阿弥光悦が有名です。
その弟子、俵屋宗達は「風神雷神図扉風」などで知られている画家です。
小堀遠州は茶室や庭園をつくることに秀れ京都の桂離宮は、遠州風の設計と言われています。
その他、茶室のとこにたてる茶花とか名香を嗅ぎ分ける聞香なども流行するようになりました。
「風流踊り一美しい飾りを付けて踊る風流おどりは安土・桃山時代に、盛んに行われました。
平和を撮り戻した町や村で、一般の人たちが賑やかに踊りくるったのです。
この踊りは、やがて各地の盆踊りとなりさらに歌舞伎踊りを生みだしました。
京都の賀茂川の川原に住んでいた河原者と呼ばれる身分の低い人たちの間からは猿楽の芸人、人形使い、曲芸師とか見世物の興行師などがたくさんあらわれて民衆芸能を流行させました。
浄瑠璃とも結びつき、伴奏として三味線な使った操り人形や阿国歌舞伎など江戸時代に栄える民衆芸術はほとんど安土・桃山時代に発展の足場を築いたのです。
阿国歌舞伎
人目につく姿や変わった動作をして歩きまわる者のことを「かぶき者」と言いました。
出雲の阿国という女性が、華やかで目立つ姿をして、京都の町中で踊ったので、これを「かおどり」と言ったのです。
美しい着物
能や歌舞伎が盛んになると、その着物も非常に華やかになり、刺繍と箔で模様を表した着物が多く用いられました。
中国風の織物が京都の西陣の織工にも取り入れられて、金紗・縮緬・唐織錦・繻子・緞子なども作られました。
さらにポルトガル人が伝えたビロードやつづれに似たゴプラン・サラサ・モールなどの南方または西洋風の織物も、織られるようになりました。
この頃、表着としては、自由にいろいろな絵模様を染め出した美しい小袖が流行しています。