今回は新井白石と正徳の治とは? 赤穂浪士について、日本の歴史を紹介します。

新井白石と正徳の治とは?

六代将軍家宣が立つと彼の儒学の先生であった新井白石の考えが政治に反映しはじめました。
白石は、朱子学者としても優れた人でした。

道理にあった考えを持ち強い信念で、綱吉の曲がった政治を改め文治政治を正しく伸ばしていきたいと考えました。

まず生類憐みの令を止めて牢屋に入れられていた8800人の人たちを許してやりました。
また幕府の財政が乱れてますます赤字がひどくなってきたので何とかしなければなりません。

白石は、悪いお金をたくさん発行するよりもよいお金を少し出したほうが物価が落ち着くと信じていたので、その方針をとりました。

また江戸時代の初め頃から日本の金銀が、たくさん外国に流れでましたので何とかして、これを防ぐ必要がありました。

白石は、長崎で行われる貿易の額を少なくする一方お金で払う代わりに、できるだけ海産物で払うようにしました。

この他、将軍の代が代わるごとに、お祝いにやってくる朝鮮の使節をもてなす費用も、減らしました。
そして、外国に対ては将軍を日本国王として認めさせようとしました。

農民たちが、暮らしに困って訴えてきたときも他の役人なら、厳しく罰するところを白石は、暖かい態度で取り扱いました。

さらに外国の様子もできるだけ正しく知ろうと勤め日本へやってきた西洋人から、いろいろ話を聞いて本を表したりしました。

しかし、白石の政治も本当に文治政治を立て直すことはできませんでした。
白石と考えが違っていた老中たちは白石の政治は幕府の力を弱くするものだ、として反対しました。

こうして「正徳の治」といわれた白石の政治もわずか七年で終わりました。

新しい学問の芽生え

綱吉や白石の文治政治はそれまで、まだかなり強く残っていた戦国時代の荒々しい気風を変えるのに力がありました。

各藩でも、学校をつくって武士の子どもたちを教育しました。

この学校を藩校といい会津の日新館・水戸の弘道鰍、名古屋の明倫館・鹿児島の造士館などが有名でした。

また、出版が盛んになったので民衆の知識も、次第に向上し都市では寺子屋が開かれ町人の子も教育を受けることが出来るようになりました。

学問の世界でも新しい動きがおこってきました。
儒学では、朱子学に反対して古学がおこってきました。

山鹿素行・伊藤仁斎・荻生得棟などがその代表的な学者です。
古学は儒学な生活に役立つ学問にしようとする運動です。

とくに徂徠は世の中の乱れを治めるために武士は昔のように農村に住み商人の活動を抑えなければならないと唱えました。

古学の他に日本の古典を研究する国学も生まれ契沖らがあらわれました。
和算の関川和が活躍したのを初め暦や医学もすすんできました。

赤穂義士とは?

1702年(元禄一五年) におこった赤穂の浪人たちの討ち入り事件もこの時代の気風を、よく表しています。

播磨(兵庫県)赤穂城主浅野長矩の家来であった四六人(初め四七人であったが一名未参加)の浪人が主君の仇、吉良義央の屋敷に討ち入った事件です。

前の年、幕府から勅使(朝廷からの使い)をもてなすように言いつけられた長矩は、そのやり方を教える役目を持つ義央が冷たい態度を取ったのを怒り江戸城内で義央に斬りつけました。

このため長和矩は切腹を命じられ領地を取り上げられてしまったのです。

家老であった大石良雄をはじめ46人の浪人は、様々な苦心を重ね、ついに、目指す義央の首をあげ長矩の恨みを晴らしたのです。

仇討ちは、大昔から行われています。
しかし平和な時代におおっぴらに人を殺すことは社会の決まりや、習わしに背くことになります。

しかし儒教の考えからいうと主君や親兄弟の仇を打つということは忠義であり孝行であるというのです。
だから幕府は殉死を禁止しましたが仇討ちだけは認めていました。

赤穂の浪人たちの討ち入り事件に対して荻生徂徠などの学者は、たくさんの人間が集まって騒ぎをおこすことを禁止している幕府の法律に背くといって激しく非難しました。

しかし同じ儒学者の仲間には忠義を成し遂げた立派な行いであるから命は助けてやったほうがよいと主張する人もたくさんいました。

幕府は、その立場に困りとうとう46人に切腹を命じました。
この事件は、その後芝居や小説などですっかり有名になりました。



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