今回は徳川綱吉の政治 生類憐れみの令について、日本の歴史を紹介します。

徳川綱吉の政治

このころ幕府では家綱に継いで、五代将軍綱吉の攻治が初められました。
綱吉も、儒学の大好きな将軍でした。

自分で大名や旗本に何度も儒学の講義をしたほど熱心でした。

綱吉のお気に入りの側用人柳沢吉保も学問や芸事が、たいへん好きでしたから政治の方針も、儒教の精神に基づいて行われるようになりました。

武力だけでなく文(学問)で世の中を納めるというので、このころの政治を文治政治といいます。

綱吉は、それまで幕府の政治を動かしてきた譜代大名が古い考えに囚われてといるのを嫌い柳沢吉保のような、身分は低いが学問のできる人を重く用いて政治を正しくしようと勤めした。

こうして、側用人政治が始めるのです。
親孝行な息子や、夫によく仕える妻を褒めて褒美を与えたのも儒学の精神のあらわれです。

しかし、仏教を深く信じた母のために親孝行な綱吉は、とうとう生類憐みの令という悪い政治を始めることになりました。

綱吉の母は、綱吉に子どもが、なかなか生まれないのは生き物を大切にしないせいだという僧の言葉を信じて綱吉に生き物を可愛がるように進めました。

綱吉は戌年生まれなのでとくに犬を大切にするように厳しく命じたのです。

この法令がでると鳥・獣・魚など、生き物と名の付くものは絶対に殺したり、傷付けたりしては
いけないことになりました。

金魚を売ることが出来なくなり金魚屋は失業しました。
魚屋も商売を止められました。

特に犬となると、たいへんです。

飼い犬を登録させて、養う費用を与え犬の喧嘩は水を掛けて怪我をしないように引き分け、もし怪我をしたら、犬を医者に見せるように言いつけました。

犬をはじめ、獣や鳥を、うっかり殺したり傷つけたりしたために牢屋に入れられた武士や百姓・町人がたくさんでました。

幕府は、江戸の中野と大久保に大きな犬小屋をつくり江戸中の野犬を4万8700頭も集め農民や町人から取立てた税で養いました。

この間に、幕府の財政も急に行き詰っていきました。
幕府は品質の悪いお金をたくさん発行して苦しい財政を補おうとしました。

年貢も、重くしました。

富士山が噴火して宝永山ができたとき田畑のかぶった灰を取り除くためだといって農民から税を取立てながら大部分は幕府の懐に入れてしまいました。

こうして綱吉は人々に恨まれながら死にました。

しかも綱吉は死ぬときに生類憐みの令は、いつまでも続けるようにと次の将軍家宣に固く言い残して死んだということです。

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