今回は江戸時代の市民の暮らしとは?
天下祭り・富突き・さかり場について、日本の歴史を紹介します。

天下祭りとは?

江戸の市民は、祭りが好きで、どの神社の祭礼も、それぞれ賑やかでしたが特に山王社(6月1日)と神田明神(9月15日)の祭りが有名です。

この祭りの行列は江戸城中までくりこんで将軍もこれを見る習わしがあったので天下祭りともいいました。

江戸の町民はこれを誇りに思い、たくさんの費用をかけて町ごとに趣をこらした山車や神輿をつくり江戸っ子の意気を競ったものです。

行列の道筋の店は仕事を休み、親戚や知人を招いて、にぎやかに宴会を開きながら見物しました。

芝居と寄席

芝居や寄席も人々にとって大きな楽しみでした。

芝居では、向こう一年間にその劇場に出演する役者が顔を揃える11月の顔見世狂言が評判をよんでたいへん賑やかでした。

寄席では、今でも私たちと馴染みの深い落語や講談などが上演され江戸時代の末頃からは女浄瑠璃などの音楽がたいへん流行しました。

幕府は、このような市民の娯楽を制限して寄席は15ヶ所に決めましたが、とても抑えきれるものではなく公認されない席がたくさんあったようです。

富突きとは?

気前の良い江戸っ子でも貧しければ、金が欲しかったのは当然です。
そこで富突き(富くじ)が流行しました。

一枚一朱(1両の16分の1)ほどの富ふだを買って100両、200両の大当たりが出るかと胸を躍らせていました。

富突きは神社や寺が修理費用を得るために行い谷中の感応寺や湯島天神などが有名でした。
しかし、これは害があるというので天保の改革で禁止されました。

さかり場とは?

こうした江戸市民の消費的な暮らしによって市中のあちこちに、さかり場が出来ました。
中でも、最も繁盛したのが上野・浅草の一帯です。

多くの人が信仰する浅草寺の門前であるとともに幕府が市民の遊びを抑えるために、わざと町外れの浅草あたりに娯楽関係の商売を集めさせたためでもあります。

浅草観音堂の後ろは奥山と呼ばれて蛇使い・こま回し・猿回しなどの大道芸人や、珍しい見世物小屋が建ち並び気安く遊べる場所でした。

また、少し離れて芝居小屋が立ち並ぶ猿若町があり吉原という、賑やかな遊び場所も近くにありました。

浅草と言えば今でも東京の下町の人には親しみやすい繁華街です。



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