今回は享保の改革とは? 徳川吉宗について、日本の歴史を紹介します。

八代将軍徳川吉宗

徳川将軍家も、五代目の綱吉の頃から財政が苦しくなってきたので、これまでのよい貨幣を悪くして
やりくりをしました。

悪くするというのは金貨ならば金を少なくして銀を多くいれるのです。
そうすると、今まで100万両造っていたのが同じ金の量で、220万両にもなるというわけです。

六代将軍家宣、七代将軍家継がときは学者の新井白石が、政治を助けましたが、わずか七年で終わってしまいました。

七代将軍は子どもでしたので後継がありませんでした。
そこで、紀伊(和歌山県) 藩主徳川吉宗が将軍になりました。

御三家すなわち分家から入って本家を継いだのです。

鷹狩り

吉宗は鷹狩りなどが好きで度々借りに出かけました。
鷹狩りというのは鷹をよく仕込んでおいて野鳥を捉えさせるのです。

家康も秀忠も好きで、しょっちゅう鷹狩りに出かけていきました。

それがしばらく耐えていたので吉宗は、武士を鍛えるには勇ましいことをしなくては駄目だと思って、また、はじめたのです。

また、吉宗は下総の小金原(千葉県)でまさがりをして多くの鹿や猪を捉えたり旗本たちに水泳を習わせたりしました。

そこで、今まで怠けていた武士たちも、うっかりしていると大変だと思うようになり少しは武芸に励むようになりました。

目安箱

吉宗は、また、目安箱という一種の投書箱をおいて町人や浪人たちの自由な意見を記名で投書させました。

目安箱には、鍵がしてあって、そのまま将軍の前へ持っていき、そこで閉いてみるのでした。

養生所

吉宗は、小川竺船という町医者の意見を用いて養生所をつくりました。
ここは、貧しい人たちが病気になったとき無料で入院させたり手当をしたりするところです。

吉宗と大岡忠相

幕府の政治をよくすることは将軍ひとりの力ではできません。
吉宗の周りにも、立派な役人がいました。

その中で大岡忠相は、特に優れていました。
彼は、20年間も江戸の町奉行を勤めた人です。

江戸の町奉行というのは江戸の町を取り締まる役で南町奉行と北町奉行と2人いました。

大岡忠相は伊勢の山田の奉行をしていましたが、そのときのやり方が優れていたので吉宗は将軍になると忠相を江戸の町奉行に任じ後には大名に取立てました。

忠相の裁判は公平であるというので人気があったようで、落語や講談では、裁判はみな大岡越前守の裁判だということにされてしまい「大岡さばき」(越前守武の裁判)という言葉まであります。

しかし、その中には作り話もたくさんあるようです。

公事方御定書

大岡越前たちは、吉宗の命令で裁判の基準になる公事方御定書という本をつくりました。
御定書百箇条とも呼ばれ当時の裁判の仕方や刑罰がよくわかります。

刑罰にもいろいろ種類があって死刑・遠島・追放・叩き・刺青・手鎖・過料(罰金)などがありました。
死刑の中にものこぎりびき・張り付け・獄門・火罪(火あぶり)・斬罪・死罪・下手人など7通りもありました。

遠島は島流し、叩きは犯罪人を打つ罰でした。
罪の内、一番重いのは主殺しで、のこぎりびきの上張り付けにされる決まりでした。

強盗殺人罪や強盗傷害罪などは獄門です。
お金を10両盗んでも死罪です。

米将軍とは?

そのほか吉宗は幕府の財政を立て直すために倹約令を出したり新田や鉱山の開発や、飢饉に備えてサツマイモの栽培にも力を入れました。

吉宗の改革を享保の改革といいます。
また吉宗は、米将軍とも呼ばれました。

吉宗が将軍になっている間は米の値段が上下し、それを整えるのに苦心したからです。

享保の初めのうちは不作のため米は高かったのですが10年頃から豊作が続くと米の値段がどんどん下がりました。

幕府は慌てて、いろいろと対策をこうじましたが効き目がありませんでした。

そのうち、享保13年(1728年)西日本の稲が、ほとんどイナゴのために食い荒らされてしまったため米の値段はあがりました。

このように、米の値段が上がったり下がったりしたので人々は大変不安に思い幕府の財政立て直しも、上手くいきませんでした。



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