今回は寛政の改革について、日本の歴史を紹介します。

田沼時代とは?

吉宗のあと、その子の家重、次に、孫の家治が続いて将軍になりました。
しかし、家重も家治も吉宗ほどのカがなかったので老中の田沼意次がカをふるうようになやました。

意次は外国との貿易を盛んにしたり印旛沼の一部を埋め立てて田畑を造ろうとしたりしましたが思うようにいきませんでした。

そのうえ、意次は賄賂をとって役人の地位をあげたり商人に利益を与えたりしたので一般の人々は意次をたいへん悪くいいました。

意次は、子どもの意知を若年寄にして悪い評判に包まれながら、ふたりで権力をふるっていました。
ところが1754年(天明四年)三月、意知は、殿中で佐野善左衛門政言という旗本に傷付けられました。

誰も、意知には同情しないで切腹を命じられた善左衛門を「世直し大明神」と呼んで、その他には、大勢の人がお参りにいきました。

田沼への人々の反感がどんなに深かったかがわかります。
この頃、天明の大飢饉がおこりました。

江戸の市民も、米が高くて買うことができないものが多くなり、米屋や呉服店などを襲って打ち壊しを行いました。

意次は、それをどうすることもできませんでした。
意知は四月に死に意次も落ち目になって翌々年老中を辞めさせられてしまいました。

松平定信

田沼が辞めたときは11代将軍家斉のときでした。
田沼のあと、白解(福島県)の城主松平定信が老中になりました。

定信は、将軍吉宗の子の田安宗武の子で松平家の養子となり白河11万石の藩主となりました。
定信は、荒れ果てた農村を立て直すよう努力し、評判がよく名藩主として知られていました。

定信は、老中になったときまだ30才でしたがすぐに役人が賄賂をとることを禁じて田沼意次をはじめ不正なことをしていた役人を罰しました。

財政の立て直し

定信は、自分が持っていた理想に加えて祖父の吉宗のやり方を真似て政治の改革を行いました。
定信は、幕府の財政を立て直すために武士たちに無駄使いを辞めさせ武道や学問をすすめました。

それまでは役人が江戸城へ出仕するのに老中や若年寄が、決まった順で行くことにしてありました。

ところが正確な時計がない時代でしたから他の人がいつ登城したかを合図で知らせて順序を間違えないように苦労しました。

定信は、これを辞めさせて江戸城の4つ(午前10時ごろ)の太鼓が鳴るのを合図に一斉に登城するようにしました。

石川島の人足寄場

そのころ、犯罪者の中には追放という刑罰を受けるものがいました。

追放というのは、自分の住んでいた町や村にはもちろん江戸にいてはいけないとか京都には行ってはいけないとか言うように立ち入り場所を制限されるものです。

追放になったものは本籍地がなくなるので、それを無宿者といいます。

無宿になった人はもともと生活に困って罪を犯した者が多いので追放になれば、なお困ってまた悪いことをするようになります。

また、刑を終えた人で正業に就けず、ぶらぶらしくいる人もいました。

そこで定信は隅田川の川口にあった石川島に人足寄場をつくり無宿者などを入れて大工や米つきなどの仕事をやらせ、その賃銭を積立させて世間へ出たときの元手にするようにしました。

また、江戸の町人に米や金を積立させ飢饉のときに米などを与える元手にさせました。

町人たちは、始めは嫌がりましたがこの積立のために、後に飢饉や災害があったとき困った人々を救うことができました。

この積立は、江戸幕府が倒れたときにも140万両もありました。

東京市がそれを引き継いで両国橋を掛け替える費用にしたり東京府庁や東京市役所の建物をつくり、養育院を設けたりしました。

定信の行った仕事をそのときの年号を取って寛政の改革といいます。



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