今回は天保の改革と大塩平八郎の乱について、日本の歴史を紹介します。
天保銭とは?
定信は、数年で老中を辞めたので、そのあとは、将軍家斉が政治をとることになりました。
松平定信が立てた財政を立て直すための計画も定信がやめてからは守られなくなり崩れていきました。
それに、家斉は、派手好きな人でしたので幕府の経済は、苦しくなってきました。
文化・文政のころになると特に酷く、歳出に比べて歳入が不足する年が、多くなりました。
そこで、幕府は貨幣を悪くして財政の苦しさを切り抜けようとしました。
天保年間にいたるまで何回となく貨幣をいなおしましたが重量は減り、品質はますます悪くなりました。
1827年(文政10年)に出された一朱金は金21パーセント、銀88パーセントという質の悪いものでした。
これでは、金貨とは言えそうもありません。
1835年(天保6年) に造られた天保銭は100文の銅銭でしたがこれまでの一文銭の100倍の銅を含んでいるわけではありませんでした。
また天保銭は、40枚で一両でしたが数が増えるにつれて値打ちが下がり、ついには100枚で一両になりました。
こんなことをしてやりくりをしなければならなかったのです。
大塩平八郎の乱とは?
天保年間は、飢饉が度々あったので東北地方などでは多くの人が飢え死にしました。
しかし、米がとれないと農村の人が困るばかりでなく米を買って食べる都市の人も困りました。
大坂や京都でも、たくさんの死人が出ました。
しかし、幕府ではそういう時にも上手い方法をとらないで見殺しにしてしまったりで非常に憤慨する人もいました。
この頃大坂に大塩平八郎という学者がいました。
平八郎は、もともと町奉行所の与力という役を勤めていましたが職を子どもに譲って隠居していました。
飢饉になっても大坂町奉行は京都や大坂の貧しい人々を救おうとしないで大坂にあった米を江戸へ運ぼうとしました。
また、大坂の金持ちも米を買い占めようとしたので米の値段がますます高くなって貧しい人は、いよいよ困るようになりました。
大塩平八郎は、この有様を見て、たいへん憤慨しました。
そこで、町奉行や金持ちの家など直そうとして仲間を集めました。
金や米を奪って貧しい人たちに与えようしたのです。
まず、自分の本を全部売って、そのお金を、困っている人に分けてやりました。
ところが、いよいよ襲撃というまたの日に仲間の1人が奉行所に知らせてしまったので上手くいきませんでした。
それでも、船場という金持ちの住んでいる町を焼き討ちしてしまいました。
そのため大火事になり大坂の町の5分の2ほどぼやけてしまいました。
平八郎は、一か月半ほど隠れていましたがついに見つかり、町奉行の兵に囲まれたので自殺してしまいました。
1837年(天保八年)のことです。
しかし、幕府が奉行をおき自分で治めている大坂で武士が、幕府に謀反をおこしたのですから幕府はもちろん世間の人は、びっくりしました。
平八郎は幕府を倒すつもりは、なかったのですが、そのやり方をおこって大砲や鉄砲まで持ち出して町奉行をうとうとしたのですから、これまでには考えられない大事件だったわけです。
この事件のあと平八郎がすぐ捕まらなかったので平八郎の人相書が全国に配られました。
そのために、一層この事件が知られ各地で乱をおこす人も出てきました。