今回は神奈川条約とは?
総領事ハリス・井伊直弼について、日本の歴史を紹介します。
神奈川条約とは?
あくる1854年(安政元年)ペリーは再び軍艦7席を率いてやってきました。
幕府はこのときまでに、いろいろ相談しましたがどうするかを決めていませんでした。
しかし、もう追い返すことは出来ません。
とうとう、幕府はペリーと開国の取り決めを交しました。
下田・箱館(函館)を開港場にしてアメリカの船にまき水・食べ物を差し出すことになったのです。
その年の三月にはこの取り決めをもとにして日米和親条約が結ばれました。
神奈川(神奈川県)で結ばれたので神奈川条約とも言います。
ペリーが日本と条約を結ぶことに成功したと聞くと、他の国々も、すぐに日本へ使いを送ってきました。
1856年一月までの間にアメリカと結んだのと同じような和親条約がイギリス・フランス・ロシア・オランダとも結ばれました。
しかし、和親条約には貿易の取り決めはしていません。
アメリカやその他の国々もこの条約だけでは、満足しませんでした。
総領事ハリス
おりを見て貿易の取り決めをしようと考えたアメリカは、1856年(安政三年)ハリスを日本に送りました。
ハリスは総領事という役目です。
彼は下田に領事館をおき幕府の将軍に会って、大統領の手紙を渡す機会を待っていました。
あくる年、ハリスは江戸に乗り込み将軍や幕府の老中と会いました。
丁度そのころ、清(中国)はアロー号事件でイギリス・フランスの連合軍に責め立てられていました。
ハリスは、イギリスやフランスが清を負かした後、すぐ日本にやってくるだろうそして、日本に都合の悪い条約を無理やり押し付けてくるだろう、それをさせない方法はただ一つ今の内にアメリカとよい条件で条約を結ぶことだと、強く幕府に言ったのです。
井伊直弼
そのころ、日本では開国には反対する人々もかなりたくさんいました。
特に、ペリーが来てからあまりに幕府の腰が弱いのを見せつけられた大きな藩の中には、今こそきっぱりと開国を断って国民の心をふるい立たせるときだというものもありました。
こういう人たちは幕府のやり方が気にいらずだんだん京都の朝廷に近づいて幕府のやり方を改めさせようとするようになりました。
こんなことでは幕府の力は弱くなるばかりです。
その上、幕府の中では次の将軍を誰にするかについて意見が大きく二つにわかれていました。
心配した幕府の人たちは井伊直弼を大老にして直弼に大きな権力を持たせこの難しい時期を乗り切ろうとしました。