今回はペリーの来航とは? 慌てる幕府と4隻の黒船について、日本の歴史を紹介します。

ペリーの来航とは?

アメリカ・ロシア・フランスの国々やアヘン戦争をしかけて清との間に有利な条約を結んだイギリスは
次に日本に迫ってきました。

日本の鎖国を打ち破り貿易の取り決めをしようというのです。
1843年(天保14年)にはイギリスの軍艦が、琉球の南側に現れました。

宮古・八重山諸島の付近を測量した上に琉球と貿易したいと言ってきました。
このころ琉球は、薩摩藩が治めていたのです。

翌年になると、フランスも軍艦三隻で琉球にやってきました。
また、長崎にきたオランダの軍艦は開国を勧める、国王の手紙を持ってきました。

幕府はこの勧めを断り大急ぎで砲台を築いたり諸藩に命令したりして海防を固めました。
しかし、開国を求める国々もじっとしてはいません。

やがて、イギリスやフランスの軍艦が長崎にも、現れるようになりました。

4隻の黒船とは?

イギリス・フランス・ロシアよりも、いっそう強く日本に開国を迫ったりは海の向こう側の国アメリカです。

1846年(弘化三年)東インド艦隊の司令長官ビッドルが、軍艦2隻を率いて浦賀(神奈川県)に来ました。
この時は、あまり強いことも言わずに帰りました。

しかし、1833年(嘉永18年)にはアメリカの司令長官ペリーが強い決意をもって、やってきました。
ペリーは軍艦4隻を率いてまず琉球に立ち寄りました。

もし日本が言う事を聞かないときは琉球を根拠地にして戦争を仕掛けるつもりでいたのです。

ぺリーは、六月三日浦賀(神奈川県)の港に入ってきました。
浦賀の村はもちろん村にいた幕府の役人たちも大慌てです。

江戸へ知らせるためしきり早馬や飛脚がとびました。
海辺の人々は荷物をまとめて逃げ出す有様です。
このごろ外国船は黒船と呼ばれました。

4隻の黒船のために浦賀から江戸にかけて、ひっくり替えるような騒ぎでした。

慌てる幕府

ペリーは、日本の最高の役人に会いたいと強い態度を押し出しました。
しきりに、から玉を打ったり軍艦を走らせ、江戸湾の測量をしたりして脅かしました。

幕府は、すっかりおじけづいてしまいました。

そして、多くの藩から武士を集めましたがとても、勝てそうにもありません。
日本の大砲も船もペリーのそれとは比べものになりませんでした。

幕府は、ペリーの強い決心を知って、ペリーが持ってきたアメリカ大統領の手紙を受け取ることにしました。

大統領の手紙には、日本と仲良くし貿易をしたいことアメリカの船に石炭や食べ物を売って欲しいことなどが書かれていました。

幕府は、来年には必ずよい返事をするからと、誤魔化して、いったんペリー帰らせることにしました。

ペリーはその後も測量を続け江戸の町が、間近に見えるところまで入ってきて大騒ぎさせ、六月一二日にようやく去りました。

泰平の眠りを覚ます蒸気船たった四はいで夜も寝られず蒸気船というのは上等のお茶の名で、汽船にかけたわけです。

この歌は、お茶を飲むと眠れないということに黒船騒ぎを結びつけたもので、そのころ流行った歌です。

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