今回は安政の大獄とは? 桜田門外の変について、日本の歴史を紹介します。
安政の大獄とは?
幕府反対の声日米通商条約の取り決めで幕府に反対する声はいよいよ高まりました。
そこで井伊直弼は、取り決めに反対した水戸(茨城県)・越前(福井県の一部)尾張(愛知県の一部)などの藩主を罰しました。
そして、京都で幕府に反対する運動をしていた人たちを片っ端から捕まえて、牢に入れました。
梅田雲浜・頼三樹三郎・橋本左内・吉田行松陰など多くの人々が捕らえられ、死刑になりました。
西郷隆盛は薩摩に逃げました。
しかし、隠れるところがなく月照という僧とともに海に飛び込んで死のうとしたこともありました。
このときの幕府の激しい取り締まりを安政の大獄と呼んでいます。
吉田松陰とは?
幕府に反対した人たちの中には身分の低い武士が多くまた、町人や農民の出身の人もいました。
これらの人々は、勤王の志士と言われました。
吉田松陰はその内のひとりです。
松陰は長州藩(山口県の一部)の武士の家に生まれました。
はじめ兵学(軍事を研究する学問)を学びましたが後に江戸へ出て佐久間象山に西洋の学問を学びました。
そして、ペリーが来たときにはその軍艦にもやりこんで外国に渡ろうとしました。
国を思う心が強く外国の様子を知ろうとしたのです。
しかし、外国に行くことは幕府が厳しく禁じていましたので松陰は、牢屋に入れられました。
やがて許されて故郷に松下村塾を開き青年たちを教育しました。
ここで松陰に学んだ人の中から高杉晋作・久坂玄瑞・前原一誠・伊藤博文・品川弥二郎などたくさんの優れた人が出ました。
桜田門外の変とは?
安政の大獄のあと幕府に反対する人々はいっそう深く直弼を憎むようになりました。
幕府の政治を動かしている直弼を殺してしまい、それをきっかけに京都で兵をあげようという計画も立てられました。
この計画は、藩主を罰せられて憤慨した水戸藩の浪土たちによって進められました。
彼らは1860年(万延元年)三月三日江戸城の桜田門外でついに井伊直弼を討ち取りました。
これを桜田門外の変といいます。
坂下門外の変とは?
大老を殺された幕府では老中安藤信正を幕府の責任者としました。
信正は直弼の後を受け継いで幕府の人気をよくし朝廷とも仲良くするために孝明天皇の妹、和宮を将軍の妻に迎えたいと申し出ました。
この考えには、朝廷の中でも賛成する人がありました。
しかし和宮には、結婚の約束をした相手がありましたし孝明天皇もはじめから反対でした。
それを幕府は、無理やりに将軍の妻にしようというのです。
和宮が江戸に行くと決まると天皇を尊び、幕府を倒そうとする志士たちはますます幕府反対の態度を強くしました。
そして、志士たちは1862年(文久二年)一月江戸城の坂下門で安藤信正を傷付けました。
これが坂下門外の変です。
公武合体とは?
責任者が次々に、ふたりも襲われるようでは幕府の力も知れたものです。
今まで、外様だと言われて幕府に軽く見られていた長州藩や薩摩藩などが幕府のこの弱りめに漬け込んで
強い意見を出すようになりました。
そして朝廷を中心として各藩が集まろうとするカが強くなりました。
まず長州藩は、開国を推し進め多いに海外に発展するべきだということを幕府や朝廷に申し入れました。
そのためには、朝廷は今までの鎖国の方針を止め、幕府の開国を認め幕府と朝廷とは、手を取り合って国を強くしていかなければならないというのです。
その中心となったのが長井雅楽という人です。
この意見は、開国に反対する人々によって潰されてしまいました。
しかし、やがて薩摩の島津久光が1000人の兵をつれて京都と江戸に乗り込みました。
久地は、長州藩の開国の意見には反対でしたがやはり、朝廷と幕府とを一つにするため、骨を折ろうとしたのです。
朝廷と幕府が一つになることを公武合体といいます。
公とは公卿(朝廷方)武とは武士(幕府方)の意味です。
しかし、開国の意見も公武合体論も長州耐や薩摩藩の力を人々に示すだけで幕府を強める役には立ちませんでした。
その後、志土たちの活動はいっそう激しくなりました。