今回は尊王攘夷について、日本の歴史を紹介します。
勤王の志士
京都に集まった志士たらは早くから幕府を倒す計画を立てていました。
島津久光が兵を率いて京都に乗り込むと志士たちはこれを倒幕の兵にふりむけようとしきりに運動しました。
公武合体を進めようとする久光にはこうした志士の動きが邪魔になります。
久光は、幕府を倒そうとする気は無くただ幕府の政治を改めさせ、その上で公武合体を計るつもりでした。
したがって、志士たちの倒幕の運動が激しくなることは、島津久光にとって最も恐るべきことです。
そこで、久光は志士たちを推し進めようとしました。
志士たちが、自分らの力で兵をあげようとして久光に抑えられた、寺田屋騒動のような事件もおこりました。
久光は、志士たちを抑えると朝廷にはたらきかけ勅使を江戸にいかせて幕府の政治を改めることに、成功しました。
しかし、まもなく長州藩主毛利敬親が京都へやってきました。
敬親はさきの公武合体・開国の意見を捨て外国と結んだ条約をもとに戻すことを強く幕府に求めました。
また、土佐藩主の山内豊信も勤王の志士が、たくさん加わった兵士を従えて、京都へやってきました。
このような長州藩や土佐藩の動きに志士たちは、これまでにない強い力を持つようになりました。
国民の不満
目米通商条約が結ばれてから生糸がどんどん国外に売り出されていきました。
そのため、桐生や西陣などでは絹織物の原料がなくなってしまいました。
また、外国から毛織物や綿織物が、どしどし輸入され日本の織物業は苦しくなりました。
その上、物の値段が急に三倍も四倍もあがったので人々の生活は苦しくなり幕府のやり方を恨みました。
そこで、幕府は貿易を抑えようとしました。
しかし、江戸で幕府と親しくしていた商人はやはり美味い汁を吸っていたので地方の商人が多いに不平を言いだしました。
地方の商人たちは幕府に反対している志士にたくさんのお金をやるようになりました。
撰夷の運動志士たちは、外国人を斬り殺したり外国の領事館を襲ったりするようになりました。
このようにして外国人を追い出そうとする志士たちの活動を、壌夷運動といいます。
1860年(万延元年)には公使館の通訳ヒュースケンが暗殺されました。
翌年には、水戸の浪士がイギリス公使館にあてられた江戸の東禅寺を襲いました。
さらに、1862年(文久二年) の暮れ長州藩の高杉晋作たちは幕府を困らせようとして品川の御殿山に移ったイギリス公使館を焼き払いました。
外国側は、損害をすっかり繋ぐよう幕府に強く抗議しました。
幕府は、もうどうしていいかわからなくなりました。