今回は大政奉還とは? 鳥羽伏見の戦いについて、日本の歴史を紹介します。

大政奉還とは?

山内容堂は、天皇の命令が出たことを知ると朝廷側から責められない前に政治の実権を朝廷に還すよう、将軍に勧めました。

将軍慶喜は容堂の勧めに従って政治を朝廷に還しました。1867年(慶応三年)10月のことです。

これを大政奉還といいます。

300年近く続いた江戸幕府の時代もようやくこれで終わりになりました。

鳥羽・伏見の戦いとは?

いよいよ、な中心に政治が行われるようになりました。
しかし、実際の政治は全国の藩主が集まって相談してから決めていくのです。

将軍も大名のひとりとして藩主の会議に出ることになりました。
政治の実権は、朝廷にかえったというものの徳川家は、やはり軍隊と多くの土地を持っていたのです。

このままでは、藩主の会議を開いたところで政治は徳川家の言うままになります。

そこで大久保利通・岩倉具視らは御所内の小御所で開かれた会議で「王政復古の大号令」の勅書を発表しました。

天皇のもとに中央政府がつくられ徳川慶喜には土地を朝廷に差し出すように言い渡されました。
これでは、徳川方も黙ってはおれません。

とうとう、京都の鳥羽・伏見街道で大坂城内の幕府の兵、桑名・会津藩の兵と薩摩・長州藩の兵とが、戦いを始めました。

まもなく幕府側は負け慶喜は江戸にかえってしまいました。

江戸城のあけわたし

朝廷では、有栖川宮熾仁親王を徳川家を討つ大将軍として江戸を攻めることにしました。
薩摩・長州・土佐らニニ藩の兵は江戸を目指して進軍をはじめました。

朝廷側の官軍が江戸に近づくと徳川側では、江戸で戦争するかどうか激しい議論が戦わされました。

勝海舟らは、これ以上国内で争ってはならない国内で争っているうちに外国が何をするかわからないという意見を述べました。

この意見が通り勝海舟は官軍の西郷隆盛と会って城のあけわたしや慶喜の今後の処分について談判しました。

こうして江戸城は無事に官軍にあけわたされました。

彰義隊と白虎隊とは?

家来の中には、まだ官軍と戦おうとするものもたくさんいました。
上野(東京都)の山に立てこもった彰義隊は2000人以上を数え、江戸の官軍を脅かしました。

しかし、官軍の総攻撃にあって彰義隊は負けました。
上野の森の戦いが済むと会津を中心とする東北地方の大名たちが同盟を結んで、官軍に反抗しました。

戦争は東北に移っていったのです。

会津の少年白虎隊も、官軍と戦いましたがついに敗れ、飯盛山で死にました。
その後も、榎本武揚の率いる旧幕府の海軍は、箱館の五稜郭を根城として官軍と最後まで戦いました。

しかし1869年(明治二年)に降伏しここに戦争は、すっかり終わりました。
もう江戸幕府の時代ではありません。

すでに1868年(明治元年)には天皇を中心とする新しい政府ができ江戸は東京と改められて、新しく天皇の都となっていました。

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