今回は王政復古とは? 徳川慶喜について、日本の歴史を紹介します。

徳川慶喜

長州征伐の負け戦の知らせがしきりにやってくる中で将軍家茂は大坂城で亡くなりました。
次の将軍には慶喜がなりました。

慶喜は長州藩との戦いを取りやめフランスの助けを借りながら幕府の仕組みを改めていこうとしました。
政治のやり方も改め西洋に見習おうとしたのです。

こうなってくると長州藩や薩摩藩の幕府を倒そうという狙いも危なくなってきます。

倒幕の動き

ところが、そのころ孝明天皇が亡くなりました。
天皇は、出来るだけ幕府と仲良くして行きたいと考えていたのです。

そのため天皇が亡くなると朝廷の中の幕府に反対する人たちのカが強くなりました。

公卿の岩倉具視らは新しく位についた明治天皇のもとで幕府を倒し、王政復古を実現する計画をねりました。

薩摩や長州では武力で幕府を倒せという声が強くなってきました。
そして、とうとう幕府とたおせという天皇の命令が、薩摩藩と長州藩とにこっそり授けられました。

いっぽう、幕府とこれを倒そうという人々の間をとりなそうとい動きもありました。
土佐(高知県)の前藩主、山内容堂(豊信)や越前(福井県の一部) の前藩主松平慶永の動きがそれです。

幕府の勝手なやり方を許さず大名や人々を広く政治に携わるという公議政体論をもって、なんとか幕府をまもろうとしました。



関連記事