今回は明治政府とは? 五箇条の誓文について、日本の歴史を紹介します。

新政府の誕生

1867年(慶応三年)、一五代将軍徳川慶喜は将軍の位を天皇にかえしました。
江戸幕府の政治は、ようやく終を告げたのです。

そして、幕府を倒すために手柄を立てた人たちが中心になって新しい政府がつくられました。

その頃の政府の主な人たちはもと公卿だった三条実美・岩倉具視、もと薩摩藩の武士だった西郷隆盛・大久保利通、もと長州藩の武士だった木戸孝允・伊藤博文・山県有朋たちでした。

そのほかの、かつての志士たちもそれぞれ新しい役に就きました。
この人たちは、天皇を中心にして次々に新しい政治を行いました。

そして社会の仕組みも大きく変えられました。
この改革が、明治維新と呼ばれています。

維新というのは全てが新しくなるという意味です。
政府には、国民の大きな期待がかけられました。

五か条の誓文とは?

1868年には、慶応の年号が明治と改められました。
明治天皇は公卿や国々の大名を集め新しい政治のやり方を神々に向かって約束しました。

約束は五つあり五か条の誓文と呼ばれています。

五か条の誓文には、政治に携わるものは、お互いに広く意見を出し合ってやっていこう封建時代の古い習わしをやめて世界の進んだ文化を取り入れていこうということなどが述べられています。

五か条の誓いには新しい改革をやっていこうという意気ごみがあふれています。
しかし、国民の実際の生活についてはまだ新しいやり方が示されてはいません。

同じ日に出た五つの禁令では江戸時代とかわらず民衆の政治活動を制限することが示されていました。
同じ年には、政体書がでてこれからの政治の大元がたてられました。

立法(国の法な作ること)、司法(法律に背いたものを裁判すること)、行政(政治を実際に行うこと)という
国の大きな三つの仕事をそれぞれ独立させることが決められました。

幕府の時代には立法・司法・行政の三つがわかれていませんでした。

そのため大きな力を持ったものが勝手な命令をくだして自分と意見の合わないものや気にいらない人を、どしどし牢屋に入れたり、殺したりすることも出来たりでした。

新しい都、東京

新政府は、国民の心を新しくし政治の中心である天皇の権威を国民に知らせるために都を移すことを考えました。

大久保利通は、大阪に都を移そうという意見を差し出しました。
いろいろ議論された上新しい都は江戸に決まりました。

江戸は東京と改められ1868年(明治元年)10月天皇は江戸城にうつりました。

徳川将軍家の膝下であった江戸は天皇の都として新たに生まれかわることになったのです。



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