今回は版籍奉還・廃藩置県について、日本の歴史を紹介します。
版籍奉還とは?
新しい、政治ができても、それぞれの地方は江戸時代と同じようにもとの大名が治めていました。
天皇は、徳川氏の持っていた領地を自分の領地にしただけです。
これでは、新しい政治を行うことは出来ません。
そこで、政行の指導者たちは大名の土地と人民を朝廷にかえさせることが藩を取り締まる上に必要だと考えました。
1869年(明治二年)政府は薩摩・長州・土佐・肥前の四つの藩にすすめて土地と人民を天皇にかえさせました。
すると他の藩主もみなそれぞれの土地と人民を天皇にかえすことを申しでました。
全国の藩、中でも特に小さい藩では維新の戦争で、お金に困っており人民を取り締まる力も失っていました。
そこで、これらの藩は、むしろ喜んで政府のすすめに応じました。
政府は、今までの藩主を政府の役人と認めて藩知事に任命し、藩の政治を行わせました。
廃藩置県とは?
しかし、版籍奉還はしたもので、もとの藩主が藩知事(知藩事ともいう) という名前で、これまで通り藩を治めていたのですから本当に新しい政治に変わったとは言えません。
政府は藩の政治を付き崩し政府のカを高めようと勤めました。
けれども、藩知事の中には新しい政治を心から喜ばないものも多く、また人民の方もこの殿様に治められているので少しも新しい気持ちになれませんでした。
そこで、木戸孝允は大久保利通、西郷隆盛と相談して1871年(明治四年)、今までわかれていた藩をすっかり無くそうと考えました。
今度は反対する藩が出てくることも予想されました。
そこで政府は、まず薩摩と長州の藩主を説き伏せました。
それから薩摩・長州・土佐の三つの藩の武士一万を東京に呼び寄せ政府の軍隊をつくりました。
言うことを聞かない藩主があれば軍隊の力で、やっつけようというのです。
1871年7月14日、三条実美・岩倉具視以外の公卿は全部のぞいて、西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助・大隈重信を中心とする薩長土肥の出身者で固めた政府がつくられました。
そしてその日、天皇は東京にいる講藩知事を呼び集めて藩を取りやめ、県をおく命令を伝えました。
こうして、大小様々の藩は無くなって三つの府と72の県ができました。
もとの藩主であった藩知事は役目をとかれ俸禄(給料)と華族の身分が約束されて住まいを東京に移されました。
変わって東京・京都・大阪の府には府知事が、県には県令がおかれました。
府知事も県令も東京の政府が決めたものでほとんど、他藩から出たものが任命されました。
これらの仕事が廃藩置県と呼ばれているものです。
廃藩置県が行われてから今まで藩が取立てていた年貢は政府の手に治めることになりました。
その代わりに政府は藩主と藩の武士への俸禄を出してやり藩が借りていたお金も代わりに払ってやることになりました。
これによって、旧藩主は借金から逃れ貸主である高利貸の資本家は踏み倒される危険を免れました。
廃藩置県が行われたために日本の政治は、政府の命令通りに行われるようになりました。