今回は明治時代の交通・通信の発達について、日本の歴史を紹介します。
交通・通信の発達
産業をおこし、国を富ませるためには交通や通信機関を発達させなければなりません。
江戸時代には、街道すじに関所や番所があって交通も自由にできませんでした。
政府は、1869年(明治二年)その関所や番所を廃止しました。
また、これまでの飛脚にかわる新しい通信制度を定めました。
こうして、政府は進んだ交通・通信機関を取り入れることに力を尽くしました。
陸蒸気
政府は、まず東京と横浜の間に鉄道を敷くことにしました。
イギリスから技師を呼び寄せたり機関車・客車・貨車を輸入したりしました。
そして、工事に取り掛かってから二年半たった1872年(明治五年)の九月に出来上がったのです。
この汽車は、新橋と横浜の間約29キロメートルを、一時間たらずで走りました。
料金は上等・中等・下等の三つにわかれており上等が1円21銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘でした。
当時の米の値段が一升で五銭やらでしたからかなり高い料金といえます。
しかし人々は、その早くて便利なことに驚き、陸蒸気と呼びました。
陸を走る蒸気船という意味です。
さらに1874年(明治七年)には大阪と神戸との間にも鉄道岸が敷かれました。
こうして、鉄道は全国の主な都市と都市との間に次第に伸びていったのです。
陸上の交通では、このほか大きな町に日本人の考えた人力車や外国から伝わってきた馬車が、これまでの籠にかわって使われるようになりました。
海運業の発達
政府は、陸上の交通のほかに海上の交通の発達にも力を入れました。
海運業は、政府の事業では、ありませんでしたが政府は、民間の会社に蒸気船払い下げたり、お金を出したりしてこれを保護しました。
中でも、土佐藩(高知県)出身の岩崎弥太郎が経営した三菱汽船会社が、もっとも盛んで、日本の海運業を
ほとんど、独り占めにするほどでした。
郵便制度
1871年(明治四年)から東京と大阪の間に郵便制度が行われるようになりました。
これまでの飛脚制度に代わって郵便の事務は全て政府の事業となりました。
1873年(明治六年)から郵便料金は全国どこでも同じになり、また、この年に、葉書が発行されました。
郵便の制度が整うにつれて役所の日誌や新聞・雑誌なども郵便物として取り扱われるようになりました。
その料金も、飛脚を利用していたときよりもずっと安くなりました。
また、郵便物を取り扱う局も1871年(明治四年) 180局から、1873年(明治8年)には1501局となり、さらにその翌年には3245局に増えました。
このような郵便制度の発達は文化の普及にたいへん役立ちました。
前島密は外国の郵便制度を取り入れて、郵便制度の発達に力を尽くした人です。
電信
電信は、郵便よりニ年も早い1869年(明治二年)に東京と横浜の間に、初めて使われるようになりました。
電信も、鉄道と同じようにイギリスから技師を呼んで、工事を監督させました。
遠く離れた人と、すぐに通信できるこの便利な仕組みは、どんなに人々を驚かせたかわかりません。
ある地方では、キリシタンバテレンの魔法だとか若い女の生き血が電線に塗ってあるとか、いろいろの噂がたちました。
これは、日本に古くからある悪い習わしを信じ、外国の新しい文化に反対する人々が、とばした噂でした。
知識のない人たちは、この噂を信じて、電信柱を倒したり電信線を切ったりしました。
こうした出来事のために電信はあまり発達しませんでしたが1873年(明治六年)頃からようやく全国に広まっていきました。