今回は文明開化とは? 太陽暦・散切り頭について、日本の歴史を紹介します。
政府が、進んで西洋の文化を取り入れたので人々の生活も、急に変わってきました。
太陽暦の採用
その中で、国民に最も大きな影響を与えたのは政府が太陽暦を採用したことです。
それまでは、月の満ち欠けをもとにした太陰暦が使われていました。
太陰暦は、旧暦とも言われ今でも私たちの生活に残っているものがあります。
八十八夜とか、ニ百十日などがそれです。
しかし太陰暦には、不便なことがあります。
実際の季節と、暦の月日があわなくなってくることです。
そのくるいを治すために度々、閏月がおかれます。
そのために、一年が22か月になるのです。
例えば、1868年(明治元年) には四月が二度、1870年(明治三年) には10月が2度ありました。
すでに、ヨーロッパやアメリカでは太陽暦を使っているのに日本だけが違った暦を使っているのでは外国との付き合いが盛んになった明治の世には、たいへん不便でした。
そこで政府は、1872年(明治五年)12月2日限りで、太陰暦を止めました。
そして、翌日を1873年(明治六年)1 月1日としました。
私たちが今使っている暦はこのときに定められたのです。
暦の上でも、日本は外国の仲間入りをしたわけです。
た、1日の時間も、それまでは12時にわけて子刻・丑刻などと読んだり、あるいは、六つ時・七つ時などと呼んだりしていました。
これを改めて、1日を24時間として今使っているように何時何分と言う呼び方にしました。
さらに、外国と同じ七曜制を用いて週間を七日とし、日曜日を休日としました。
また、このころ新しく祝祭日が定められました。
神武天皇が即位した日(後の紀元節)と天長節(今の天皇誕生日) だけが祝日に決められました。
散切り頭
新しい生活の中で最も目に見えて変わったのは人々の服装や習わしでした。
政府は1871年(明治四年)チョンマゲを切ってもよい刀をささなくてもよいという布告を出しました。
そこで、この頃から散切り頭が増えてきました。
チョンマゲを切ったあとの頭を散切り頭というのです。
当時の風俗を詠った流行歌に、散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がするチョンマゲ頭を叩いてみれば因循姑息の音がするというのがあります。
因循姑息というのは、先のことは考えず古いものをただ有り難がって、ぐずぐずしていることです。
このように、形だけでも西洋風にしていれば文明開化といって、もてはやされたのでした。
洋服は活動するのに便利でしたから江戸時代の末に、軍隊の制服として用いられていました。
しかし、明治の世になっても役人は政府の儀式には直垂や、狩衣など、江戸時代の儀式の服装を用いていました。
そこで政府は、1872年(明治五年) に、この習わしを止めて、儀式のときの役人の服装も洋服にすることに決めました。
そのため、まず役人や先生が普段も洋服を着るようになりました。
また、散切り頭が流行るにつれて帽子を被り、靴も履くようになりました。
この他、こうもり傘も広まりました。
服装ばかりでなく食べ物もたいへん変わってきました。
これまで嫌われた牛肉も東京では、これを食べさせる、すきやき料理屋も出来てきました。
また、バター・パン・コーヒー・牛乳なども人々に親しまれるようになりました。
西洋風の建物
衣・食ばかりでなく、住のうえでも西洋風の建物が増えてきました。
それにつれて室内の調度品も西洋風になって椅子・机などが備え付けられました。
また、行灯に代わってランプも使われるようになりました。
西洋風の建物で最も有名なのが銀座通りです。
これはイギリス人の技師の階設計で1878年(明治11年)に出来ました。
両側には、れんがづくりの建物がならび、車道と人道との区別もありました。
道端には、松・桜などの並木が植えられ人道には、れんがが敷かれました。
通りには明るいガス燈が灯り、やがてレールの上を馬にひかせる鉄道馬車が走るようになりました。