今回は鹿鳴館時代について、日本の歴史を紹介します。

鹿鳴館時代とは?

井上外相や政府はまた条約を改正するためには日本も外国に負けない文明国であるということを外国人に見せなければならないと考えました。

そこで、政府は盛んに西洋の風ぞくを取り入れ東京には鹿鳴館という西洋風の立派な建物を建てました。
ここで西洋風の贅沢な宴会やダンスの会を盛んにやり外国の公使や商人を招きました。

うわすべりのした西洋の真似事がこの鹿鳴館を中心にして広がりました。
この頃のことを「鹿鳴館時代」といいます。

これに対して、国民の中には反対の声が高くなりました。

三大要求

政府は外国との条約の相談については固く秘密にしていましたが農商務大臣谷干城は、外国から帰ってきて井上外相の考えに、猛烈に反対しました。

「外相のやり方では治外法権は無くなるけれども日本の裁判が外国人の思う通りにされ日本の法律をつくるにも外国の指図を受けることになる。これでは、安政条約より悪い」谷はこういって、とうとう大臣をやめました。

このころから、政府のやり方が国民にもわかり、もとの自由党の人たちをはじめ政府の西洋かぶれに反対の人も一斉に政府を攻撃しました。

そこで井上も外相をやめ外国との条約改正の話も裏切りました。
こののち国民の間には

  1. 外国と完全に対等の条約を結べ
  2. 税金を安くせよ
  3. 国民に政治上の意見をいう自由を与えよ

という三か条の要求をする

大きな国民選動がおこりました。

政府はこれを厳しく取り締まり政府に反対する人々を保安条例で東京から追い払いました。

治外法権を無くす

続いて、大隈重信が外務大臣となり外国人裁判官の数を減らすことなど井上外相の考えを少し改めて外国と談判しました。

それが国民に知れると、またも、激しい反対運動がおこり、この談判も中止されました。
これから後は外国人裁判官を雇うという考えは政府も捨てました。

そして、青木周蔵・榎本武揚と代々の外相がいろいろ努力し1894年(明治27年)7月、陸奥宗光が外相のとき、ようやくイギリスとの間に治外法権を無くした新条約が結ばれました。

条約改正の完成

この頃までに、日本は憲法と議会を持ち国民の政治上の権利も前よりは強くなっており、また産業もかなり発達していました。

このような国の進歩が条約改正成こうさせる、いちばん大きな力になりました。

また、この頃イギリスとロシアの勢力争いが激しくなりイギリスは目覚しい勢いですすむ日本を味方にしたかったので日本人が、なによりも強く望んでいる条約改正をしようとしたのです。

日本もまた、このとき清国と戦争の準備をしており、そのためにはイギリスと仲良くしておかなければならなかったので条約改正の談判でも、いろいろとイギリスに譲りました。

このような世界の有様が日本とイギリスの話し合いを上手くすすめるのに役に立ちました。
新日英条約にならって、つぎつぎに各国と条約が結ばれ、それらは、1899年、いっせいに行われました。

けれども関税自主権は、このときには、まだ持つことができませんでした。
それは、1911年(明治44年)になって各国と新しい通商航海条約を結んだとき、はじめて認められました。

日本はこうしてアジアの国々の中で、はじめてヨーロッパやアメリカの国々と完全に対等の条約を持つ国となりました。

関連記事