今回は安政条約による国民の声と政府のやり方について、日本の歴史を紹介します。

国民の声

このような不都合な条約は一日も早く改めなければならないと国民も政府も考えていました。
福沢諭吉は、明治の初めにそのことを国民に訴えました。

また馬場辰猪はやはり明治のはじめイギリスにいるとき英語の論文を書いてイギリス人たちが日本を苦しめていることを非難しました。

そして「日本人は、地球上で一番強い国とも平等の条を結んで、独立国の面目を守る」と叫びました。
自由党も改進党も心に条約改正を唱えました。

自由党の人たちは「日本が外国と、平等になるには、まず日本国民に政治上の権利をあたえ議会と憲法をつくり国民の間の不平等をなくし全国民の力を一つにして外国と談判しなければならない。

政府のカだけでは強い外国に日本の要求を入れさせることはできない」と主張しました。

政府のやりかた

けれども政府は、国民の政治上の権利を認めるのを嫌がりとりわけ外交のことに国民がロ出しするのを嫌いました。

そうして政府の力だけで少しずつ条約を改めていこうとしました。

1871年(明治4年)政府は岩倉具視らを外国に遣わして条約を改める相談をしましたが、どの国も、少しも日本の要求を聞きませんでした。

その後も、政府はいろいろ努力しました。

1887年(明治20年)、外務大臣井上馨は外国の公使たちと会議を開き、まず冶外法権を無くすため、次のような条約案をつくりました。

  1. 5年のちに治外法権をなくする。
  2. その代わり外国人は、日本国中を自由に旅行し、どこにでも住み、商業や工業を自由にはじめ
    土地も買うことができる。(安政条約では、外国人はこの権利をもたない)
  3. 日本の裁判所に外国人の裁判官を雇い、外国人を裁判するときには日本人の裁判官よりも外国人の裁判官な多くする。
  4. アメリカやヨーロッパの国々にならって新しい法律をつくり、それを外国に見せて賛成してもらってから実行する。

といったものでした。

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