今回は第一次世界大戦 強まる軍部の力について、日本の歴史を紹介します。


連合国軍の占領

1945年(昭和20年)8月15目、日本はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏を誓いました。

八月の終わり頃、連合国軍は連合国軍最高司令官マッカーサ元帥に率いられて日本に上陸し占領しました。

そして、連合国軍の総司令部すなわちG・H・Qが東京にわかれその指導のもとにポツダム宣言が実行にうつされることになったのです。

日本の降伏が、その年の9月2日東京湾上のミズリー号の上で正式に取り決められると総司令部は、次々と日本政府に命令を出して日本から、戦争を導いたものを追放し民主主義を実現せるための改革を要求してきました。

軍隊の解体

日本を大きな戦争へと導き多くの人々を不幸に陥れたものは軍国主義です。

軍国主義とは国家と国民生活を侵略戦争によって栄えさせるために戦争を進めていくのに都合がよいよう
一切のものを整えていくという考え方です。

この軍国主義を日本から無くそうとすることが占領政策の第一の仕事でした。
したがって、まず軍隊をなくしました。

軍人の武装を、どしどしとりはらわせ兵器を取り上げたのです。

極東軍事裁判

つぎに、占領軍は、戦争中に軍を指導したり戦争のための政治に、関係したような人々を捕らえて裁判にかけました。

このように軍国主義を推し進めた中心人物が裁かれた裁判を極東国際軍事裁判といいます。

裁判官は、アメリカ・中国・イギリス・ソビエト・オーストラリア・カナダ・ニュージーランド・オランダ・フランス・インド・フィリピンの11か国からでました。

2年半かけて、東条英機らの裁判が終わり7名が絞首刑になりました。

そのほか、占領軍は戦地にいた軍人が引き上げてくるとその上級の軍人とか、兵卒でも外地でそれぞれの土地の住民に対して乱暴をはたらいたものを、捉えて罰することにしました。

彼らは、戦争犯罪として軍事裁判にかけられ、それぞれ刑を言い渡されました。

また、軍人だけでなく政治家・官吏・実業家・学者など戦争中に軍と結んで活躍した人々21万人が公職から追放されました。

天皇の人間宣言

占領軍は、日本の軍国主義の頂点にあったのが天皇であることを知っていました。
そこで、軍国主義をなくすため天皇をなくすかどうかが問題になりました。

しかし、日本の支配者たちは降伏して占領されるその日から天皇だけは守ろうと決心していました。

また、国民の中には、天皇は軍国主義による戦争に利用されだけであって直接の責任はなかったと考えるものがたくさんいました。

こういう有様の中で占領軍も一挙に天皇をなくすことをためらいました。
天皇をなくすれば、日本の国内にたいへんな混乱が起こりかねないと判断したからです。

しかし、これまでのように天皇は生きた神(アラヒトガミ)だという考え方がまだ国民に染み付いているようでは困るので1946年(昭和21年)の元旦天皇自身によって「天皇は人間である」という宣言がくだされました。

これが天皇の人間宣言です。

そののち、天皇は人間として親しまれるようになるため各地をまわりました。
戦災地の跡を訪ねたり戦争の犠牲になった家の人たちを慰めに周ったりしました。

そして国民も、直に人間としての天皇を見るようになったのです。

治安維持法の廃止

なお、これまで久しい間、国民は政治や社会のことについて自由な意見を述べることができませんでした。

治安維持法ができてからは、特にそうでした。

占領された頃の日本政府は皇族の東久邇宮が首相となった内閣でした。
この内閣は、日本の自由主義化を主張していましたがこの自由から共産主義者を除いていました。

そこで、占領軍から治安維持法の廃止と政治犯人の釈放、憲兵や特高警察の廃止を指示されると総辞職しました。

治安維持法は次の幣原喜重郎内閣のときになくなって徳田球一、志賀義雄ら全国で2000人に及ぶ政治犯が許されました。

そして、しばらく抑え付けられていた共産党が党員の釈放に活気づき再び組織されることになったのです。