今回はドイツの降伏とポツダム宣言について、日本の歴史を紹介します。


ドイツの降伏

ありあまるほどの兵器を持った連合国軍は東から南から大波のような勢いで日本本土へ押し寄せました。

1945年に入ると、アメリ空軍の空襲がひどくなり東京・大阪をはじめ全国のほとんどの都市が焼け野原となり何百万という人が死んだり焼け出されたりしました。

ヨーロッパでも、連合国軍の攻撃が激しくなりました。
イタリアは、1943年に降伏しましたし、ドイツも国内までおしまくられていました。
連合国は、すっかり自信を強くしていました。

1945年4月には、連合国側の50の国々がアメリカのサンフランシスコに集まって国際連合をつくる会議を開きました。

国際連合は、戦争が終わってから世界平和を守るための機関として考えられました。

第一次世界大戦のあとには平和を守る機関として、国際連盟がつくられましたが、うまく平和を守ることができず再び大戦争がおこりました。

そこで、今度はそういうことのないようにとアメリカ・イギリス・ソビエト連邦などが中心となって新しい国際連合の仕組みを考えていたのです。

こうして、戦争が終わったのちの1945年10月に生まれた国際連合は戦争が終わらない内から、どんどん用意がすすめられていました。

ヨーロッパではドイツが必死になって戦いました。

しかし、東からはソビエ卜西からはアメリカ・イギリスの大軍に押し寄せられて、ついに1945年5月、首都ベルリンがおちヒットラーは自殺して、連合国に降伏しました。

ポツダム宣言

戦いを続けていいたのは日本だけです。
連合国は、ドイツのポツダムというところで会議を開きました。

そこでは、日本を降伏させたのも、どのようにして日本をおさめていくかということが問題になりました。

そして、この会議で連合国側が共同して宣言したものがポツダム宣言です。

このポツダム宣言の中には「日本に秩序が整うまで連合国が日本を占領する。日本の軍隊は解散する。戦争の責任者を裁判する。日本を平和を民主主義の国にする」という連合国の決心が述べてありました。

連合国は、日本がこの宣言を受け入れるならば戦争をやめるが、受け入れない場合は日本が倒れるまで
攻撃を続けると言ってきました。

しかし、日本はこの宣言を受け入れるどころか日本人がひとり残らず死ぬまで戦うと答えました。

敗戦

やがて8月6日の朝、アメリ力の原子爆弾が、広島に落とされました。
広島は、この一発の爆弾でたちまち焼け野原となり24万もの人が死んだのです。

続いて8月9日2発目の原子爆弾が長崎に落とされました。

同じ日、ソビエト連邦が連合国側に加わって戦争をはじめ、満州に攻め込みました。
こうなってはもう戦争を続けていくことはできません。

軍隊はさんざんな目にあっていましたし国民も苦しさのあまり戦争に協力しなくなっていたからです。
政府は、ポツダム宣言を受け入れて降伏することにしました。
8月15日、天皇はそのことを国民に伝えました。

満州事変から14年間も続いた戦争もようやく終わりました。

このあいだ、日本の政治の指導者たちは一つの戦争をおさめようとしては次の大きな戦争をはじめ、次々と戦場を広げ戦争を長引かせ、坂を転がり落ちる雪だるまのように敗戦への道を進んでできたのです。

戦争に負けたと知ったとき国民は一時は悲しみましたがすぐに、戦争が終わったことを多いに喜びました。

国民は、もう戦争に懲り懲りしていたからです。

多くの犠牲をはらった、日本人は戦争は人々を苦しめるだけで、なに一つとして利益になることがない
ということを知ったのです。

そして、戦争に勝つことよりも世界中の人々が仲良く平和を守っていくことのほうが大切だと考えていたのです。