今回は戦後の生活について、日本の歴史を紹介します。
苦しい生活
戦争に負けて、日本の領土は本州・四国・九州・北海道と近くの島々だけになりました。
明治のはじめごろとほぼ同じくらいの広さです。
このせまい国土に約8000万の国民が住むことになったのです。
戦争のために壊された、たくさんの家もおいおい復興していきました。
しかし、戦争の終わり頃から不足していた食料事情は、ますます悪くなって、しばらくは毎日の食べ物に困る国民が田舎へ食料の買い出しに出かける風景が続ききました。
また、食料だけでなく衣服のほかの日用品のなにからなにまで不足して国民の暮らしは本当に息苦しいようでした。
しかし、とにかく戦争は終わっているのですから国民は未来に明るい希望を抱いて一生懸命働きました。
アメリカも、ときどき日本の経済を助けました。
ところが、なによりも困ったことは物資が乏しいだけに、物の値段がどんどん上がってお金の値打ちが下がってきたことです。
こういうことをインフレーション、略してインフレといいます。
そして、国民の生活はインフレによって一層苦しくなりました。
共産主義と占領政策
激しいインフレになると当然労働運動やストライキが盛んに行われるようになりました。
1947年(昭和22年)2月1目全国の労働者が一斉にストライキをすることになったとき、その直前、総司令部はこれを禁止しました。
そのころ、日本の共産主義者の活躍は目覚しく労働者を力強く指導し国会議員としても進出しました。
共産主義国の勢力は、世界でもアメリカを中心とする自由主義国の勢力に対立するほどのものとなっていました。
中国では、蒋介石の国民政府に対抗し朝鮮にも共産主義が入り込んできたりしたので総司令部は、日本の共産主義に対して警戒しはじめたのです。
そして、同時に共産主義に結びつきやすい労働運動をも厳しい態度で見るようになりました。
実際に中国では、1949年(昭和24年)人民解放軍が国民政府を台湾に追いやって大陸に毛沢東を頭とする
中華人民共和国を成立させました。
また朝鮮でも北部に1948年(昭和23年)朝鮮民主主義人民共和国ができ金日成が首相に選ばれました。
こうして共産主義の全国が日本列島にごく接近するとアメリカは、日本を自分のほうにひきつけようと
とくに努力しだしました。
そして、日本の経済の復興のために、いろいろ面倒をみるようになりました。
国民の暮らしにだんだん生気が蘇ってきたころ総司令部は、日本の共産党に、なにかと辛く当たるようになり1949年(昭和24年)第三次吉田内閣のころにはとりわけ、それが際立ってきました。
そして、インフレを抑えるための経済政策に基づいて官公庁労働者の大規模な首きりが行われるようになると下山事件・三鷹事件・松川事件という奇妙な事件があいついで起こりました。
ところが、これらの事件がいかにも国鉄労働組合や共産党員が起したかのように宣伝されて次第に労働運動は抑えられていきました。