今回は邪馬台国と卑弥呼について、日本の歴史を紹介します。
漢の後に中国では魏という国(220年~265年)が起こりました。
この国の歴史の本を「魏志」と言いますが、これにも日本のことを書いたところがあります。
それは「魏志東夷伝」の中の倭人について記したところで一般的には「魏志倭人伝」と呼んでいます。
この本の中で「日本には邪馬台(ヤマトのこと)国という国があり卑弥呼というその国の女王が他の多くの国を従えている」と書かれています。
そのほか「魏志倭人伝」には邪馬台国へ行く道筋や人々の生活などが書かれています。
けれど、何せ交通の便が悪い頃の中国の書物ですからはっきりしないところが多く邪馬台国がどの辺にあったのかもよくわかりません。
学者の間でもいろいろな議論が出されていますが九州にあったという人と大和(奈良県)にあったという説があります。
また。「魏志倭人伝」と「前漢書」を比べると日本の様子が少し違っています。
漢の時代には日本は100あまりの国に分かれていたと書かれています。
しかし「魏志倭人伝」が描かれた時代には邪馬台国という大きな国があって、その下に小さな国々が従えられていると書かれています。
これは方々にあった小さな国々が段々力の強い国に従えられていく姿を現しているものと思われます。
もちろん、この邪馬台国が日本全部を統一されるのはもう少し後の時代になってからです。
そしてこの統一を成し遂げたのが奈良県のヤマト(大和)の国です。
しかし、このヤマトが邪馬台国のことかどうかはわかりません。
なぜならヤマトという地名は奈良県のヤマトばかりでなく北九州にもあり邪馬台国は九州のヤマトのことだとも言えるからです。
魏志倭人伝
「魏志倭人伝」は中国の使いが邪馬台国へ来て、見たり聞いたりしたことや倭人(日本人)が中国に行って話したことを書いたものです。
この邪馬台国は九州のヤマトか奈良県のヤマトかはっきりしませんが、この本によるとこの国にはよく整った制度があったようです。
以下は「魏志倭人伝」の主な内容を簡単に書いたものです。
倭国(日本)は朝鮮の東南の海の中にある国です。
山や島が多くもとは100あまりの国がありましたがこの時には30ほどの国に分かれていました。
この中でも特に大きな国が邪馬台国で他の国々を従えていました。
邪馬台国にはもと男の王様がいましたが7、8年経つと倭国の国中が乱れて戦争が繰り返されました。
そこで卑弥呼という女の人を女王にすると国中の乱れはようやく治まりました。
卑弥呼は策を巡らした大きな屋敷に住み1000人もの女の召し使いを使っていました。
屋敷の周りは兵士たちが守っていました。
けれど卑弥呼は一人の弟以外には誰にも会いませんでした。
いつも屋敷の奥の方で占いをし、神のお告げを受けてそれを人々に伝えました。
この神のお告げを伝える役目をしたのが卑弥呼の弟でした。
卑弥呼が死んだとき人々は悲しんで大きな墓を作りました。
その内すぐ男の王様が位に就きましたが人々はこの王様には従わず倭国の国中が再び乱れました。
そこで卑弥呼の一族であるトヨという13歳の少女が位に就きました。
こうして国中はようやく治まりました。
邪馬台国では人々は体に刺青をして裸足で歩いていました。
着物は縫い合わせをせず布を体に巻きつけたり敷布のようなものに穴を空けてこれに首を通していました。
人々は稲を作ったり海に潜って魚を獲ったり、蚕を飼って絹織物うぃ織ったりしました。
人が死ぬと死体は棺に入れて埋め、土をもって塚を作りました。
また、この国は泥棒をするような人はいませんし、争いや訴えごともあまりありませんでした。
けれど、掟を破ると一族が皆殺しにされることもありました。
以上が「魏志倭人伝」の主な内容ですが何分よその国の人が書いたものですから言葉がよくわからなかったり、書いた人の思い違いもあったと思います。
しかし文字に書かれたもので、その頃の日本の様子を知る手がかりになるものは、この本しかないのです。