弥生時代の初め頃には村の人たちはみんなで協力して田や畑をつくるだけではなく、採れた作物も
みんなで分け合って暮らしていたようです。

そのため豊かな人と貧しい人との違いなどはほとんどありませんでした。
しかし、各地で出来た村を比べるてみると土地の質や広さの違いによって豊かな村と貧しい村との違いがありました。

この違いがわかってくると貧しい村は少しでも土地も広げ、作物を増やそうと努力するようになり村同士の競争が始まりました。

このように競争が始まると村の中を上手く治めたり、他所の村との争いを上手く解決するために村の人たちえお指図する指導者が現れてきました。

村の人たちはこの指導者の言うことを聞くようになりました。
こうして、指図する人と指図される人ができ身分の違いが現れてきたのです。

この頃の人々の墓を比べると身分の違いや貧富の差が現れてきたことがよくわかります。

一つの墓地の中の同じようなかめ棺であっても、中に入っているものに色々な違いが見られます。
死体の他に立派な品物がたくさん入っているものもあれば死体の他には何も入っていないものもあります。

死体と一緒に埋められている品物が多いほど、また立派な品物があるほど身分の高い人であったと考えられます。

福岡県の須玖というところでは掘り出された棺からは漢代の鏡・銅剣・銅はこ・ガラス製の玉などが発見されています。

道具が発達し農業の仕方が進んでくると村は次第に大きくなっていきました。
奈良県の唐古や大分県の安国寺前の遺跡などは大きな村の遺跡として有名です。

こういう大きな村が勢いを増し周りの小さな村を合わせて一層、大きな村になっていきました。
特に北九州は大陸に近いので進んだ金属の道具などをわりあい容易く手に入れることができました。

そのためこの地方には大きな力の強い村がたくさんあったと思われます。
こうして各地に力の強い村が幾つもでき、これらの村が段々と結びついて国へ発展していったのでしょう。

しかし、その国は後にヤマトの国のような大きな国ではなく、まだ地方に散らばっている小さな国でした。

この時代の日本の様子を知る手がかりになるのは、中国の歴史の本です。
この頃中国には漢という国が起こり、非常な勢いで周りの地方へどんどん勢力を伸ばしていきました。

朝鮮半島も北の方は漢の支配を受けるようになりました。
その中心地は今の北朝鮮のピョンヤンでそこの「楽浪」と呼ばれていました。

この漢の国の歴史を書いた本に「前漢書」「後漢書」というのがあって、その中にその頃のことが書かれている部分があります。

例えば「前漢書」には「楽浪の向こうに倭人がいる。
100以上の国にわかれ、毎年貢物を持ってくる」ということが出ています。
倭人というのはその頃の日本人のことを「倭」と呼んでいたのです。

また、ここで出てくる国というのは北九州にあった小さな国を指しているものと思われます。
今、私たちが使っているような国とは大きな違いです。

「後漢書」は「前漢書」より後に作られた本ですがこの中には「倭の奴国が57年に貢物を持ってきたので金の印を授けた」ということが書かれています。

1784年(天命4年)に北九州の博多湾の入口にある志賀島というところから珍しい金の印が発見されました。

それには「漢委奴国王」という五つの文字が刻んでありました。
これは「後漢書」に出ている57年に漢の王様から授けられた金印ではないかと考えられています。

この金印の文字は「漢の委の奴の国王」と読み漢からの奴国の王様に与えられたものと考えられています。

奴国というのは北九州にたくさんあった小さな国々の中の1つの名であると思われます。
日本の歴史を見ると文化が進んでいないころのほうが理想と言われるような平等社会なのは何故なんだろう……。

関連記事