今回は大和朝廷について、日本の歴史を紹介します。
三世紀中頃まで日本にはたくさんの小さな国々にわかれて、お互いに結びがあったり戦争をし合ったりしていました。
けれども、その内に力の強い国は段々と周りの国を従えて大きな国を作り上げていきました。
そして、やがて日本お大部分は一つの国に統一されました。
それがヤマト(大和)の国です。
ヤマトの国は今の奈良盆地から起こりました。
ここは四方を傾らかで美しい山々に囲まれた平地で米やいろいろな農作物がよくできました。
その上、交通も便利で木津川や大和川を下って難波(大阪)の港から海に出ることにも出来ました。
そのため古くから文化も進み弥生文化の時代にも、この地方は北九州とともに最も文化の進んだところでした。
ヤマトの国を納めていたのは勢いのある豪族たちで、その中心となったのは今の皇室の遠い祖先です。
皇室の祖先の力は次第に強くなり、やがて天皇として豪族たちを従えるようになっていきました。
天皇や豪族たちは、たくさんの人々を仕事に駆り立てました。
田に水をひくために池や溝を掘らせたり、大水を防ぐために川に堤防を作らせたりしていました。
こうして幾度も大工事が行われました。
田を耕すためには便利な鉄のクワも使われ始めました。
農地は広くなり米もたくさん採れるようになって豪族たちの暮らしは益々豊かになっていきました。
ヤマトの国は次第に周りの国々を合わせながら大きな国になっていきました。
そして四世紀の末頃までには東北地方を除く日本の全部が統一されることになったのです。
中国の歴史の本によると5世紀頃、讚・珍・済・興・武という倭の五王が次々に中国へ使いを送ってきたことが出ています。
五王のひとり武は雄略天皇に当たるのではないかと、考えられていますが武から宋(中国)の国王に差し出した文があります。
それには武の祖先が自ら軍隊を率いて各地を攻め、東の毛人の国を55も平らげ西の衆夷(クマソと思われる)も66国、さらに海を渡って南朝鮮に攻め込み95国も従えたと述べています。
日本武尊
日本武尊は第12代の天皇と言われる景行天皇の皇子で武勇に秀れ天皇の命令を受けて西へ東へ兵を進め国内統一のために尽くしたと伝えられています。
まず九州のクマソ征伐に出かけ女の姿をしてクマソの頭クマソタケルの家に忍び込み、タケルが酒に酔いつぶれてるところを刺殺しました。
九州から帰るとすぐに東国征伐に出かけ族に騙されて危なく野原の中で焼き殺されそうになりましが剣で周りの草を切り払って助かりました。
また三浦半島から船で房総半島へ渡るとき嵐に会いましたが妃の弟橘姫が尊の身代わりになって海に身を投げ波風を沈めました。
こうして東国を従えた尊は大和へ帰る途中で病気に掛かり都を目の前にして死にました。
このような日本武尊の物語はそのまま事実であったとは思えませんが日本統一のために尽くしたいく人かの英雄の活躍が一つの美しい物語にまとめられ語り継がれてきたのでしょうね。