今回は大和時代(古墳時代)の頃に朝鮮へ進出したときの日本の歴史を紹介します。

朝鮮への進出について紹介します。まずは4世紀頃の朝鮮ついてです。
四世紀以前の南朝鮮は楽浪郡(朝鮮の北部)を主な根拠地とする中国の王朝の勢いに押されて小さな国々にわかれていました。

一方、北朝鮮では一世紀頃から高句麗という国がおこり次第に日本海側に勢いを伸ばしていきました。
そして、四世紀の初めにはその勢いは南に伸びてとうとう楽浪郡を滅ぼしてしまったのです。

また同じ頃南朝鮮では百済と新羅という2つの国がおこり、それまであった小さな国々をほとんど従えました。

こうして、四世紀の初めには朝鮮は高句麗・百済・新羅の3つにの国にほぼまとめられました。
高句麗の勢いは楽浪郡を滅ぼした後も益々盛んでした。

ことに四世紀の終わり頃の好太王という国王のときはたいへん領土を広げました。
西は満州の南の地方から、東は日本海の沿岸にまで領土を広げ、さらに海岸沿いに北へ勢いを伸ばしました。

高句麗の勢いは南朝鮮にも伸び百済に迫ってきたのです。
ところが南朝鮮にはすでにヤマトの勢いが入り込んでいました。

日本は百済と力を合わせて北から南へと勢いを伸ばしていた高句麗と激しく戦うことになりました。
今、中国と朝鮮の国境にあるヤールー川の傍に好太王の碑と呼ばれる大きな石碑がたっています。

これは好太王の子の長寿王が父の手柄を記念して、その都のあったところに建物で高さが7メートルもあります。

この石碑の表面には好太王の建てた数々の目覚しい手柄のことがぎっしりと刻みつけられています。
その文をみると日本の軍隊は高句麗の軍隊と14年もの長い間、何度となく激しく戦ったことがわかります。

あるときには日本軍は高句麗の領土の奥深く北朝鮮のピョンヤンの辺りにまで攻め込んだようです。
このように長い間、たくさんの軍隊を朝鮮の奥深く送り込んだほどですからヤマトの国が日本の国内を
大体統一していたろうということも考えられます。

任那の日本府

任那というのは朝鮮でも一番南の端の地方で昔からたくさんの日本人がここに移り住んでいました。
ですからヤマトの国の勢いが朝鮮に伸び始めると、その根拠地としてここに日本府が置かれました。

日本府はまた任那の宮家とも呼ばれました。

日本府にはヤマトの国から遣わされた役人がいて任那の地を治め百済や新羅などの国々との外交の仕事をしました。

また城を築いて軍隊が守りを固めていました。
けれども盛んだったヤマトの国の朝鮮進出も5世紀の終わり頃になると次第に上手くいかなくなりました。

高句麗の勢いは益々盛んになり、その上新羅の力もだんだん強くなってきたのです。
しかも、日本の方では外交の失敗や将軍たちの仲間割れが続くという有様でした。

さらに六世紀になると北九州に勢いを持っていた磐井という豪族が新羅と組んでヤマトに背くという事件が起こりました。

磐井は朝鮮に渡ろうとするヤマトの軍隊を一年以上も防ぎ止めましたがついにヤマトの軍隊に敗れました。
こうして、200年も続いた任那の日本府も六世紀の中頃にはとうとう新羅のために滅ぼされてしまうのです。

神功皇后

神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后と言われています。
天皇とともに九州へクマソ征伐に行ったとき皇后に神が乗り移り「まず、海の向こうの新羅を討て」と天皇に言いました。

しかし、天皇はこのお告げに従わなかったので神の怒りを受けて急に死んでしまいました。
皇后は神を男のようにみずらにゆい、たくさんの軍隊を率いて船に乗り勇ましく新羅征伐に出かけました。

新羅の王は驚いて「東の方には日本という神の国があり天皇という方がいると聞いていました。
神の国の兵にてむかっても、とても勝てません」と言って降伏しました。

皇后は新羅王に毎年、貢物を持ってくることを誓わせ日本に帰って九州で応神天皇を生んだということです。

この話は事実かどうかわかりませんが四世紀の末頃、日本の力が朝鮮の南部にまで伸びていたことは確かです。

だから、この頃朝鮮問題に熱心な皇后がいて、それが神功皇后の話のもとになったのかもしれませんね。

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