古墳と一口に言っても様々な種類の古墳があります。簡単に紹介していきます。
日本の歴史は古墳にありです。


今でも各地で木のこんもり茂った何となく、厳かな感じのする古墳を見かけることがあります。
古墳というのはヤマトの国の支配者である天皇や豪族たちの墓のことです。

その中には棺や石の部屋があり死体がおさめられています。

古墳には様々な形のものがありますが最も一般的なのは円墳と前方後円墳です。
円墳は上から見ると丸い形をしており前方後円墳は丸と四角を継ぎ足したような形をしています。

そのほか四角い形をした方墳というのもあります。

古墳は元々は大陸の墓を見習ったもののようですが前方後円墳は日本にはだけ発達した特別な形です。
古墳の大きさも様々で前方後円墳の中には今でも大阪府にある仁徳天皇陵のように、すばらしく大きなものがあります。

古墳は元々、山すそや丘などの地形を利用して作られました。
そうすれば、わざわざたくさんの土を盛り上げなくても住んだからです。

ところが後には平野に人の力で土を盛り周りに堀を作ったりするような大掛かりなものになりました。
このような大きな墓を築くためには多くの年月とたくさんの人の力が要ります。

たくさんの人々を長い間働かせることの出来た大和朝廷の勢いはたいへん大きなものでした。
ヤマトの社会はこのように力の強い少数の支配者とその下に付くたくさんの人々にわかれていました。

ヤマトの国の天皇や豪族たちの勢いがどんなに強かったかが、これらの古墳から想像することができます。
古墳は北は東北地方の南部から、南は九州南部まで全国各地に見ることができます。

その中でも関東地方の北部や島根県・岡山県・福岡県・宮崎県などは特に古墳のたくさん固まってあるところです。
そこでこうした地方には力の強い豪族がいたことがわかります。

けれども立派な古墳が数多くあるのは何といっても奈良県や大阪府など大和朝廷が直に支配していた地方です。
古墳は三世紀の頃に大和の地方で初めて作られ四世紀になると各地に広まっていきます。


この古墳の広まり方はヤマトの国の勢いが広まっていったのとよく時代が合っています。
ヤマトの国も三世紀の中頃から勢いを広げはじめて四世紀の末頃には大体日本を統一しています。

つまり古墳の広まった地方は大和朝廷の勢いの届いていたところです。
だから古墳の広がりはヤマトの国の広まっていった様子をよく現していると言っていいのではないでしょうか。

このような古墳の中でもとりわけ大きく立派なのは仁徳天皇陵や応神天皇陵という5世紀に作られた前方後円墳です。

仁徳天皇陵は大阪の南、堺市にあります。

縦の長さ475メートル、丸い部分の直径245メートル、高さ35メートルという大きさで周りには三重に堀が作られています。

これを調べた学者の計算によると盛り上げる土を運ぶだけでも1日に1000人の人を使って四年は掛かっただろうということです。

また、古墳を作り上げるためにはただ土を盛り上げるだけではたりません。
周りには堀を作り土手を築き形を整えなければなりません。

そのほか古墳の上にはふき石というものを被せ丘の周りには埴輪も並べます。
仁徳天皇陵のふき石はその近くのものではなくて、かなり遠くの川から運ばれたもののようです。

それはトラックで運んでも何千台かが必要なほどのたいへんな数だと言われています。
また丸い筒の形をした埴輪が丘の周りや堀に沿ってぎっしり並べられていますがその数は二万以上にもなるだろうと言われています。

古墳を造る仕事がどんなにたいへんだったかがわかるりますね。
仁徳天皇陵のような大きな墓を作るにはたいへんな人手と年月が掛かります。

ですからこうした墓は天皇のまだ生きている内から作りはじめられました。
その頃の人々はこのように大きな古墳を見て天皇や豪族たちの勢いの強さにさぞ驚き恐れたことでしょう。

また天皇や豪族たちはヤマトの国の盛んな勢いをこの古墳によって外国の人に見せようとしたものかもしれませんね。