今回は古墳から出土されもの、古墳からでるものを簡単に紹介します。
それに加え、埴輪(はにわ)とは何か、それと古墳が作られなくなったのはいつ頃のことだったのか、日本の歴史を紹介していきます。


古墳の内部には死体を入れるところが作られています。
初めの頃は木や石や粘土で作った棺の中に死体を入れ棺の上にすぐ土をかぶせたり、あるいは簡単な石の囲みを作って土を被せたりしていました。

しかし後には棺も石をくり抜いたり、組み合わせたりして作った石棺となりました。
また、棺の周りには石で部屋を作り、その上に土を被せるようになりました。

石棺に形もいろいろで組立式の箱のような形をしたもの、家の形をしたもの船の形をしたものなどがありました。

六世紀頃になると古墳の外から棺の入っている石室までせん道という通り道を掘り抜いた横穴式石室というものができました。

また、北九州地方では石室や棺に色とりどりの絵や模様を描いた装飾古墳は日本では北九州に多く見られ中国や朝鮮の影響があるようです。

棺の中やその側には銅製の鏡や勾玉・くだ玉などの玉類。
それに剣など様々なものが置かれました。
今でも古墳を掘るとこのようなものが堀だされることがあります。

鏡や玉は死んだ人が生きていたときに何時も身に付けたり、傍に置いたりしていたもので、その人が死んでからも寂しがらないようにと一緒に埋めたのです。

また、鏡や玉はその頃の人にとって不思議な力を持つものと考えられ支配者の力の強さを表す印ともなっていました。

5世紀頃になると鉄で造られた鎧・兜・剣・刀・くわなどの武器や農具が古墳にたくさん納められるようになりました。

その頃のヤマトの国の天皇や豪族にとって、鉄の武器や農具は大切なものだったのでしょう。
それは勢いを強め暮らしを豊かにしてくれる道具だったのです。

だからこそ墓の中に一緒に埋めたのです。
また、さらに後の古墳になると金や金銅(銅に金のメッキをしたもの)の耳飾りや冠、馬のクラやクツワ。

あぶみ、それに柄を金でこしらえた刀など細かい細工を凝らしたきらびやかなものが収められるようになりました。


これはみな朝鮮や中国の優れた技術を使ったものです。
これを見ると大陸の文化がどんどん日本に伝わり日本の技術が進んできたことがわかりますね。

古墳の上にはふき石が被せられ埴輪が並べられました。
埴輪は粘土で作って焼いた焼き物です。

埴輪はもともとは盛り上げた古墳の土が崩れるのを防ぐために並べられてたものです。

はじめは丸い筒の形をしたものばかりでしたが後には家の形をしたもの、船の形をしたもの、そのほか人間をはじめ、馬や鳥・猿・犬などさまざまな生き物の形を表したものが作られるようになりました。

人間の埴輪といっても様々で男もあれば女もあり、鎧を付け兜を被って刀を下げた兵士もあります。
琴を弾いている人もあれば楽しそうに歌ったりしている姿を現したものもあります。

こういう埴輪によって古墳時代の人々の家や着物の様子を知ることができるのです。
埴輪をみると男も女も細い袖の上着を着て、合わせは紐で結んでいます。

男は足首の辺りを紐で結んだ太いズボンのようなものを履き、女はスカートのようなものをつけています。

そんな驚きと魅力をもった古墳ですが六世紀の中頃を過ぎると古墳を作ることが段々と衰えてきます。
もうこの頃には大きい古墳は作られなくなり小さなものだけが作られるようになりました。
そして、8世紀の初め頃までには古墳は全く作られなくなりました。

これは大陸から優れた文化が伝わってきて人々の考え方が進んだからです。
特に仏教が伝わってきて、死体を火葬する習わしが広まったころが一番の原因ではないでしょうか?