今回は大化の改新について、日本の歴史を紹介します。


蘇我氏が滅びると、さっそく中大兄皇子を中心とする新政府がつくられ、新しい政治がはじめられました。

皇極天皇は、弟の軽皇子に位をゆずり、軽皇子は孝徳三皇となりました。
また中大兄皇子は、自分では天皇にならず、皇太子をやました。

そして実際の治は皇太子を中心にして動きました。

中大兄皇子をたすけて政治をおこなったのは、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂、内臣の中臣鎌足などでした。

また、僧旻・高向玄理という、ふたりの中国がえりの学者は、国博士という政治の相談役になりました。
また、この年はじめて年号をさだめて大化としました。
つまり、六四五年を大化元年としたのです。

それで、これ以後、中大兄皇子らのはじめた新しい政治は、大化の改新と呼ばれています。

六四六年(大化二年)新政府は、改新のみことのりをだして、新政の大もとになる方しんを明らかにしました。

それは、つぎの四か条からできています。

①皇室や豪族のもっていた土地や人を、全部国家のものとする。

②全国を国・郡・里にわけ、それぞれ国司・郡司・里長という政府の役人がおさめる。また、関所やさきもり、伝馬や駅馬などの制度をさだめる。

③人民の数や名まえなどなしらべ、戸籍をつくる。これをもとにして、人民に田をわける。(班田収授法)

④新しい税のとりかたをきめる。

このみことのりによって、天皇を中心とずる、新しい国家なつくるのに必要な方法が、はっきりとしめされたわけです。

こうした新しい政治のしくみは、中国にみならったもので、隋や唐へいつた留学生たちが政治家の相談役になってとりいれたものです。

遣隋使をおくった聖徳太子の外交が、大化の改新になってききめをあらわしてきたわけです。

また、このときから、国の名も公式に「日本」と書くようになりました。

出新のみことのりの第一条では、土地や人民を、勝手に自分のものにすることを認めず、すべての土地と人民は国家のもの、つまり天皇のものとすることが、決められています。

これを公地公民制といいます。

ここに、改新の狙いがよくあらわれています。
それまで皇室は、勢いの強い豪族に、よく困らされてきました。

しかし、蘇我氏を倒した今こそ、皇室の勢いを強める絶好のチャンスです。
中大兄皇子が、このチャンスを見逃すはずはありません。

ただちに、豪族の持っていた土地や人民を、すべて天皇に差し出すように申し渡したのです。
そして、自分の持っていた土地や人民を、真っ先に差し出して、模範を示しました。

豪族たちも、これに従う者が多かったと思われます。
天皇の勢いは、にわかに強められました。

そして、この勢いをさらによく行き渡らせるために必要な政治のしくみを、細かく示したのが、みことのりの第二条以下です。

もちろん、みことのりにあるようなことが、はじめからよく守られ、行われたわけではありません。
けれども、そののち五年ばかりの政治には、みことのりを守ろうという努力の跡がよく表れています。

六五〇年ごろになると、改新政治は大体ひとくぎりつきました。
しかし、改新で目指したような国なつくりあげるには、さらに数十年の月日が掛かったのです。