今回は奈良時代での都の生活・暮らしについて、日本の歴史を紹介します。

都には、・役人や坊さんばかりでなく、商人や手工業をする人も、たくさん集められました。
町の東西には賑やかな市がたちました。

左京に東市、右京に西市が、おのおの八条の地に開かれました。
市の広さは、おのおの東西一七四メートル、南北二六一メートルもあり、多くの商人が市に集まり、地べたにいろいろな商品を広げて売っていました。

商品は米・麦・大豆などの穀類、大根・つけ菜・栗・柿などの野菜や、果物類、塩・酢・味噌・油などの調昧料、その他、筆・墨・紙・鍋・ひつ・鎌・薪・炭などの雑貨類、武器・馬具・玉・鍵などに至るまで、様々なものがありました。

また、絹や麻などの織物は、種類も多くあったことは、次の歌からも、伺われます。

西の市にただひとりいでて目ならず
買いにし絹の商じこりかも

(ひとりで西の市にきて、絹を買おうとしたら、あまりにいろいろあるので、目移りがして、つい詰まらない品物を買ってしまった。)

また、座って売る人ばかりでなく、歩きながら物を売る商人もいました。

市場での買物には、お金が支払われました。
日本で初めてお金が造られたのは、708年(和銅元年) だと言われます。

これは和同開珎(和同開珎とも読む)と名づけられ、銀と銅の両方が造られましたが、銀銭はまもなく廃止されました。

和同開珎から、958年(天徳二年)の乾元大宝まで、12種銭が造り代えられたので、この間のお金を、皇朝十二銭といっています。

和同開珎がでた始めの頃、人々は銭の使い方がわからず使おうとしませんでした。
そこで、政府は銭を貯めた人に位をあたえたり、役人の給料に物でなく銭をあたえたりしました。

また政府は、田の売買には必ず銭を使うよう命令しました。
こうして都やその周りの土地で、銭が使われるようになりました。

ところが、悪い人が勝手に銭を造って、政府を困らせるようなことがおきてきました。
政府はこれらの人々を、厳しく罰しましたが、中々なくなりませんでした。

そのために、お金の値打ちが下がり、物の値段がどんどん上がったので、人々はたいへん困りました。
また、地方の有力者のなかには、多くの銭を蓄え、政府や寺に寄付して高い位をもらう者もあらわれてきました。

奈良時代の都の人ロは約20万人位いたようでさす。
役人だけでも一万人、その家族や召し使い・奴婢(どれい)また全国から集められた衛士(兵士)や仕丁(税金のかわりに役所で働かさされる人)も何万人といたはずです。

坊さんも数千人いました。

そのほか商売なする人や大工・職人もたくさんいました。
なお当時の日本の全人口は5、6百万人と推定されます。

都に住む多くの人々のなかで、貴族は、とくに贅沢な暮らしをしていました。
広々とした都大路を、美しい着物を着た貴族たちは、馬に乗ったり、ゆうゆうと歩いたりしていました。

ももしきの大宮人の暇あれや
梅をかざして今日も集える

(宮廷の貴族たちは、暇なのだろうか、今日も頭に梅の枝をさして集まっている。)

この歌からも、当時の貴族たちの華やかな生活を送っている様子が、目に浮かんできます。
奈良時代には、朝廷をはじめ民間でも、毎年決まった日に、決まった行事が行われるようになりました。

正月の元日には、役人たちは年賀のために宮中へいきました。
同じ正月の半ばには、人々が歌を歌いながら足拍子を鳴らして歩く、踏歌の節会が催されました。

そのほか、三月には曲水の宴、四月に仏生会、五月にしょうぶの節句、七月に相撲や、七夕、お盆などの行事が続きました。

曲水の宴は、庭に細い水の流れをつくりそれに酒の入った盃を流し、盃が自分の前にこないうちに、歌をつくるあそびです。

また仏生会というのは、シャ力の誕生日を祝う花まつりです。
この時代には、貴族たちの間で、唐から伝わったあそびが、盛んに行われました。
青年らしい、勇ましい遊戯として、・打球がありました。

馬に乗った競技者が2組にわかれ、馬上から杖を使って、まりを自分のゴールに入れる遊戯です。
室内の遊戯としては、碁・すごろく・弾碁(たぎ)・投壷(とうこ)などがありました。

碁は、今と同じように、縦横19の・線を入れた361の目の上で黒白の石を戦わせるのです。

すごろくは、長方形の盤の中央に太い線と左右に21の目を入れ、その上に黒白おのおの15個の石を置き、2つのさいを振り、出た数だけ石を進め、早く敵陣にいれた方が勝ちです。

弾碁は、すごろくの盤に似た21の目の盤の上に、数個の黒白の石を撒き散らしておき、指で弾いて、当て合いをするあそびです。

投壺は、左右に耳のついた壺に少し離れたところから矢を投げこんで、数を争う遊戯です。

これらの遊戯は今でも遊んだりしますよね。

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